この過程で、地方行政区画も区割りの変更や新設が行われた。越国の分割について明確な時期が分かる資料はないが、『日本書紀』天智天皇七年(668)年七月条に「越国献三燃土與二燃水一。」とあり、この段階ではまだ越国であり、また『日本書紀』持統天皇六年(692)九月癸丑(21日)条に「越前国司献二白蛾一。」とあることから、668〜692年の間に分割されたと考えられる25。その後、『続日本紀』大宝二年(702)三月甲申(17日)条に「分二越中国四郡一、属二越後国一。」とあり、越中国に属していた4郡が割かれて越後国に編入された。具体的な郡名の記載はないが、後の頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡ではないかとされる。これにより、現在の上越地方にあたる頸城郡以北が越後国となったが、国の北端については漠然とした状態だった26。705年には猪名真人大村が越後城司となって蝦夷征討を進めるが、彼の骨蔵器には「越後北疆、衝接二蝦虜一、柔懐鎮撫、允属二其人一。」と記されている27。越後の北の疆域において蝦夷征討が行われていたということである。708年には『続日本紀』和銅元年九月丙戌(28日)条に「越後国言、新建二出羽郡一。許レ之。」とあり、越後国の中に出羽郡が建郡されている。この時期には、『続日本紀』和銅二年(709)三月壬戌(6日)条に「陸奥・越後二国蝦夷、野心難レ馴、屢害二良民一。」とあって「征伐」が行われ、また『続日本紀』同七月朔条に「令三諸国運二送兵器於出羽柵一。為レ征二蝦狄一也。」とあるように、積極的な蝦夷鎮撫策がとられていた28。そして『続日本紀』和銅五年(712)九月己丑(23日)条に、太政官議奏曰、建レ国辟レ疆、武功所レ貴。設レ官撫レ民、文教所レ崇。其北道蝦狄、遠憑二阻険一、実縦二狂心一、屢驚二辺境一。自二官軍雷撃一、凶賊霧消、狄部晏然、皇民无レ擾。誠望、便乗二時機一、遂置二一国一、式樹二司宰一、永鎮二百姓一。奏可之。於レ是、始置二出羽国一。とあるように、712年に越後国から出羽郡を独立させて出羽国が建国された。出羽国の領域としては、『続日本紀』同年十月朔条に「割二陸奥国最上・置賜二郡一、隷二出羽国一焉。」とあるように、越後国出羽郡に陸奥国の最上郡と置賜郡が加えられた。出羽郡の設置や出羽柵の活動の活発化を踏まえると、出羽国は蝦夷征討の最前線となっていた越後国北端部や陸奥国の一部地域を範囲として設置されたと考えらえる。支配領域が確定した越後国はこれ以降、他の東国諸国とともに柵戸を送り出すなど、最前線である出羽国を後方支援する国へとその役回りは変化した29。さらに律令国家は、日本海側と太平洋側の北上川流域それぞれに城柵を次々と設置していった。以上のように列島東北部の「辺境」は、蝦夷征討事業の展開とともに北へと押し上げられていったのである。朝鮮半島と日本列島との間に浮かぶ壱岐・対馬は、古来より対外交流の経路上に位置する島々であった。8世紀以降、遣唐使の航路は北路から南路に変更されたが、壱岐・対馬は新羅使や遣新羅使の経路でもあり、依然として朝鮮半島と対峙する最前線としての機能を有した30。律令国家による壱岐・対馬、そして南島などの位置づけとして注目されるのが、「嶋」という国に準ずる行政区画が設置されたことである。島を単位として設置された令制国としては、北陸日本古代の国家領域と「辺境」支配272-2 壱岐・対馬と「嶋」
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