早稲田教育評論 第36号第1号
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行われてきたが20、国内の領域的な支配は、評の設置や東国国司の派遣など7世紀半ば〜天武・持統朝にかけての諸政策によって達成されていった。そのため、ヤマト政権(倭)から律令国家(日本)への転換は、境界の質を大きく変化させた。すなわち、対外的な危機と国内支配の深化によって「国境」が成立し、その内側に「日本」が誕生したということである21。ヤマト政権から律令国家への転換によって「国境」は誕生したが、古代国家は中央集権的な支配を志向したものの、国土を均質的に支配することができたわけではない。国郡制の施行範囲と隣接しながら内国化されていない地域には蝦夷などの中央に従わない勢力が存在し、また対外交流の窓口となる地域の在地勢力は潜在的に国外と独自のつながりを持つ可能性があった。そのため、支配領域の辺縁部では「辺境」ならではの特殊な支配が行われた。また、「辺境」とされる地域についても時期によって変遷がある。すなわち、「辺境」のあり方を探ることは、古代国家の国家領域の輪郭について検討することでもあるといえる。そこで次章からは、各時期の「辺境」支配の変遷について、地域ごとに検討していきたい。律令国家の形成期には、国土の範囲を把握し、領域的な統治が目指されるようになった。この時期に、「辺境」にあたる地域においてどのように支配が進められたか見ていきたい。6世紀の磐井の乱の平定を契機にヤマト政権は地方支配を強化し、地方豪族を国造に任じる一方、東国においてはその外側の住民を蝦夷と呼んで把握するようになったとみられている。「国造本紀」からみると国造制の北限は太平洋側では現在の宮城県南部の伊具・亘理地域、日本海側では現在の新潟県長岡市付近となる。一方、蝦夷の居住地域を『日本書紀』の記述や城柵の位置などから分析すると、現在の宮城県多賀城市や仙台市周辺、米沢盆地、新潟市付近が南限となる。このように、仙台平野、米沢盆地、新潟平野を結んだ線より北側が蝦夷の地となる。そしてこの範囲は、継続的に前方後円墳が営まれた地域の北側ともほぼ一致し、蝦夷は古墳文化をそのままの形では受け入れないような文化を持っていた人々であると考えられる22。では、ヤマト政権と律令国家の対蝦夷政策について、領域支配の観点からみていきたい。『日本書紀』崇峻天皇二年(589)七月朔条には、「遣二近江臣満於東山道使一、観二蝦夷国境一蝦夷。」とあり、蝦夷との境界が意識されている。また、『日本書紀』皇極天皇元年(642)九月癸酉(21日)条には「越辺蝦夷、数千内附」とあり、続く十月甲午(12日)条・丁酉(15日)条には蝦夷への饗応の記事がみえ、「越辺」の蝦夷を懐柔しつつ服属させている。そして大化改新直後の647年に渟足柵が、648年に磐舟柵がおかれていることから、「越辺」は後の沼垂郡・磐船郡のあたり(おおよそ現在の新潟市〜村上市あたりにかけての地域)を指すと考えられる23。さらに斉明朝には阿倍比羅夫の遠征が行われ24、これ以後、9世紀初頭にかけて倭・日本の支配領域の北上が図られた。26早稲田教育評論 第 36 巻第1号1-3 国家領域と「辺境」支配2.律令国家形成期の「辺境」支配2-1 対蝦夷政策と越後・出羽・陸奥

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