遣二諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠等一、巡二行天下一、而限二分諸国之境堺一。然是年、不レ堪二限分一。ちは国家間の激しい対立と国家の消滅を目の当たりにし、国家的な危機に際して王権間の移動や二重の従属を容認しない認識が生じていった10。このようにして、ヤマト政権の内側と外側の境界が徐々に明確化されていくのである。7世紀に、境界をめぐる認識はどのように変化していくのだろうか。ブルース・バートンは、663年の白村江の戦いでの敗戦の後に大宰府が整備されていったことで、「国境」が誕生したとする。6世紀まではヤマトと伽耶を結ぶ「線」が重視されており、北部九州はその線上の一点に過ぎなかったが、7世紀になると外国人の来着を中央に報告する機能を筑紫大宰が持つようになり11、さらに白村江での敗戦によって筑紫は国防の場となって、かつてなかった国家領土の最先端としての「国境」概念が成立したとする12。1−1で見てきたように、それまでも倭の国家領域が意識されていなかったわけではない。しかし、白村江での敗戦をきっかけに国防体制を整備し、律令国家の建設を進めていくこの時期に「国境」が成立したとするバートンの指摘は、極めて重要な意味を持っている。それは7世紀後半が国家成立史上の画期であり、「日本国」の成立期とも言えるからである。「日本」国号の成立時期については、明確に「倭」から「日本」への変更やその理由について明記している日本史料はなく、『旧唐書』『新唐書』などの中国史料には国号変更についての話題はあるが13、その年については明示されていない14。また、金石文において「日本」国号が使用されているものも、8世紀以降の史料である15。そのため成立時期を確定することは困難であるが、天武・持統朝において「日本」国号が使用されるようになったことは確かである16。これは単に、国号が改められたというだけでなく、壬申の乱を経て大王の権力が伸長し、それまで大王家と豪族の連合政権的な存在であったヤマト政権が、神格化された天皇17の下で豪族が統制される中央集権的国家に変質し、その国号が「日本」と定められたということを意味する 18。この時期には、国家の領域支配も深化する。天武朝の政策として、『日本書紀』に次のような記事がみえる。天武天皇十二年(683)十二月丙寅(13日)条天武天皇十三年(684)十月辛巳(3日)条天武天皇十四年(685)十月己丑(17日)条伊勢王等亦向二于東国一。因以賜二衣袴一。これらは、地方行政区画として置かれた国の境を画定するために使節が派遣されたというものである。各国の境を定めるということは、それぞれの国が責任を負うべき範囲を定めることであり、ひいては国土の範囲を定める作業ということでもある。これ以前にも、対馬までが倭国の範囲であるという意識はあり19、また国の境を定めることも遣二伊勢王等一、定二諸国堺一。日本古代の国家領域と「辺境」支配251-2 「日本」と「国境」の誕生
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