早稲田教育評論 第36号第1号
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は物部麁鹿火を派遣し、磐井を討った。磐井の子の筑紫君葛子は父に連坐することを恐れて糟屋屯倉を献上した7。ここで重要なのは磐井が独自に新羅との交流を持っていたことであり、ヤマト政権側の勝利に終わったということは地方豪族による個別的な外交ルートを遮断したことを意味する。また、越の豪族に関する次のような話も『日本書紀』にみえる。欽明天皇三十一年(570)四月条欽明天皇三十一年(570)五月条欽明天皇三十一年(570)七月条朔、高麗使到二于近江一。是月、遣三許勢臣猿與二吉士赤鳩一、発レ自二難波津一、控二引船於狭々波山一、而装二飾船一、乃往迎二於近江北山一。遂引二入山背高楲館一、則遣二東漢坂上直子麻呂・錦部首大石一、以為二守護一。更饗二高麗使者於相楽館一。これらは、高句麗と倭との国交に関する最初の記事である。内容としては、越に漂着した高句麗使を当地の豪族が「隠匿」しているとの越からの報告があり、膳臣傾子を遣わした。高句麗使は膳臣傾子が大王の使いであると知り、自身を「隠匿」した道君に対して「汝非二天皇一」と発言し、道君に取られた「調」の返還を要求した。すなわち、道君は高句麗使に対して自身が大王であるかのごとく振る舞い、贈り物8を受け取ったということである。「郡司」「天皇」「調」といった表記も含めて、この記事の内容について検討すべきことは多いが、この話からは越の豪族が独自に高句麗との交流を持つことを禁じるヤマト政権の姿勢を見てとることができる。このように6世紀には、個々の豪族による対外交流に制限が加えられていった。そして7世紀初頭になると、『隋書』巻81・東夷伝・倭国に次のようにある。上遣二文林郎裴清一使二於倭国一。度二百済一、行至二竹島一、南望二耽羅国一、経二都斯麻国一、逈在二大海中一。又東至二一支国一、又至二竹斯国一、又東至二秦王国一、其人同二於華夏一、以為二夷洲一、疑不レ能レ明也。又経二十余国一、達二於海岸一。自二竹斯国一以東、皆附二庸於一レ倭。これは607年の遣隋使への答礼使として派遣された裴世清の経路について述べたもので、「竹斯」(筑紫)以東について倭の「附庸」する地域であるとする。「附庸」とは外交権を奪われた形で他国に従属する状態を示すことから、ヤマト政権によって地方豪族の外交権が接収され、政権に服属して国造に任じられた様を表す記事であると考えられる9。さらに、7世紀に隋・唐や倭をも巻き込んで高句麗・百済・新羅が攻防する中で、倭の豪族た24幸二泊瀬柴籬宮一。越人江渟臣裙代、詣レ京奏曰、高麗使人、辛二苦風浪一、迷失二浦津一。任レ水漂流、忽到二着岸一。郡司隠匿。故臣顕奏。詔曰、朕承二帝業一、若干年。高麗迷レ路、始到二越岸一。雖レ苦二漂溺一、尚全二性命一。豈非二徽猷広被、至徳巍々、仁化傍通、洪恩蕩々一者哉。有司、宜於二山城国相楽郡一、起レ館浄治、厚相資養。是月、乗輿至レ自二泊瀬柴籬宮一。遣二東漢氏直糠児・葛城直難波一、迎二召高麗使人一。遣二膳臣傾子於越一、饗二高麗使一。〈傾子、此云二舸拕部古一。〉大使審知二膳臣是皇華使一。乃謂二道君一曰、汝非二天皇一、果如二我疑一。汝既伏拝二膳臣一。倍復足レ知二百姓一。而前詐レ余、取レ調入レ己。宜二速還一之。莫二煩飾語一。膳臣聞之、使三人探二索其調一、具為與之。還レ京復命。早稲田教育評論 第 36 巻第1号

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