いう、われわれの『来歴』と『現在地』によって、強く規定された主観的思い込み」であることを認識すべきであるとする3。また列島の北方や南方について、日本の国土を完成させるための欠けたピースであるかのごとく扱ってはいまいか。そして、ヤマトの中では均質的かつ普遍的な支配が行われていたかのごとく描いてはいまいか。だとしたら歴史教科書は、「未回収のイタリア」と同様に、近代国家による政治的な物語でしかなくなってしまう。本稿では、歴史教育において国家領域の拡大・縮小を扱うための基礎的研究として、古代日本における国家領域について、国家構造の質的な変化や地域差を踏まえて検討する。特に「辺境」地域の支配に注目することで、国家の輪郭の時代性や地域性を明らかにしたい。本章では、倭国の国家領域について境界の内実がどのようなものであったかということに注目しながら検討し、それが「日本」の成立によって質的にどのように転換したかということについて考える。5世紀の倭の五王による中国南朝への朝貢記事を載せる『宋書』巻97・夷蛮伝・倭国には、倭王武による次のような有名な上表文がみえる。順帝昇明二年、遣レ使上表曰、封国偏遠、作二藩于外一。自レ昔祖禰、躬擐二甲冑一、跋二渉山川一、不レ遑二寧処一。東征二毛人一五十五国、西服二衆夷一六十六国、渡平二海北一九十五国。これは倭王が代々、自ら列島の東部や西部、さらには朝鮮半島にまで武力的な征圧を行ってきたことを主張し、朝鮮半島における軍事指揮権を宋から承認されることを目指すためのものである。ヤマト政権と半島の勢力との間で軍事衝突も含めた何らかの接触があったことは確かであろうが、実際に領域的な支配が行われていたとは考え難い。それでも朝鮮半島においても支配地を拡げているかのような表現をしているが、そこにこの時代の境界のあり方の特徴が顕れているといえよう。すなわち、王権が在地の人々を直接把握し、土地支配を行うような排他的な領域支配が行われていたわけではなく、豪族同士の同盟関係や対立によって境界は形成されていたのである。換言すれば、「国土」という概念は存在しなかったということである4。また、火国葦北国造の子で百済王権に仕える日羅が倭の朝廷の召喚に応じて来倭しているように5、複数の王権に臣従する豪族も存在するなど6、6世紀までの日本列島と朝鮮半島の間では王権と豪族の関係性も多面的なものであり、境界によって各国が単純に分けられるというものではなかった。こうした中で、ヤマト政権は豪族に対する統制を強化し、支配の深化を図った。そこで起こったのが、527年〜528年にかけの筑紫国造磐井の乱である。この反乱はおおよそ次のように展開する。──新羅に侵攻された南加羅・喙己呑を回復するため、近江毛野臣らが朝鮮半島南部に向かったところ、新羅から「貨賂」(賄賂)を送られた磐井が毛野の進路を遮った。それに対して政権日本古代の国家領域と「辺境」支配231.「国境」の誕生1-1 ヤマト政権の外交と境界
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