早稲田教育評論 第36号第1号
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キーワード:古代日本、国境、辺境、辺要、越後、壱岐、対馬、南島【要 旨】古代の日本において、大王と豪族の連合政権であったヤマト政権の下では、王権が在地の人々を直接把握し、土地支配を行うような排他的な領域支配が行われていたわけではなく、豪族同士の同盟関係や対立によって境界は形成されていた。そのためこの時代の境界をもって後の時代の「国境」と同一視することは、ヤマト政権の特質を見逃すことになる。白村江の戦いや壬申の乱を経て、王権が強化され、律令制を導入する中で、それまでと質的に異なる中央集権国家が誕生した。これがヤマト政権(倭)から律令国家(日本)への変化であり、これによって「国境」は誕生した。律令国家は中央集権的な支配を志向したものの、国土を均質的に支配することができたわけではない。国郡制の施行範囲と隣接しながら内国化されていない地域には蝦夷などの中央に従わない勢力が存在し、また対外交流の窓口となる地域の在地勢力は潜在的に国外と独自のつながりを持つ可能性があった。そのため、支配領域の辺縁部では「辺境」ならではの特殊な支配が行われた。また、「辺境」とされる地域についても時期によって変遷がある。列島東北部では陸奥国・出羽国・越後国が蝦夷への対応を担い、南方では日向国・大隅国・薩摩国・多褹嶋が隼人への対応や南島支配を担い、西方の壱岐嶋・対馬嶋が朝鮮半島との通交窓口の役割を担った。西海道の「辺境島嶼」では「嶋」という令制国に準ずる特殊な行政区画が設置された。奈良時代には最前線となる国を後方の国が支援する形がとられるようになり、これは「辺境」の位置づけにも影響を与えた。平安時代になると、「帝国」型の国家構造が放棄されたことで「異民族」支配が希求されなくなり、また東アジア諸国との外交関係も変化した。これによって「辺境」とされる地域も絞られるようになる。その後は新羅海賊などの現実的な対外危機の中で「辺境」として捉われる国は規定されていった。網野善彦は、『日本社会の歴史』(岩波新書)の冒頭で、次のように述べている。「日本社会の歴史」と題してこれからのべようとするのは、日本列島における人間社会の歴史であり、「日本国」の歴史でもないし、「日本人」の歴史でもない。これまでの「日本史」は、日本列島に生活をしてきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ、ある場合にはこれを「原日本人」と表現していたこともあり、そこから「日本」の歴史を説きおこすのが普通だったと思う。いわば「はじめに日本人ありき」とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像をあいまいなものにし、われわれ自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしてきたと考えられる。21はじめに日本古代の国家領域と「辺境」支配柿沼 亮介

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