早稲田教育評論 第36号第1号
236/258

立第二中学校創立二十周年記念誌(二十年のあゆみ複製版)』での座談会を見ると、PTAが地区懇談会を開催し、生徒の不良化を防ぐことに努めたとされている。『東京都荒川区立第七中学校 沿革史』では、修学旅行の際に、第七中学校の生徒が電車のホロを切った犯人扱いされたことに対して教職員と保護者が新聞社に抗議し、謝罪させていたことが確認できた29。このようなことから、戦後直後のPTAは、生徒のためにできることを模索し、新制中学校をより良い教育機関にしようとしていたと見ることができる。さらに、先述したように、本研究の成果として『早稲田教育評論』には「新制中学校創設期の体育科担当教員充足状況に関する一考察 ─東京都荒川区の場合─」が掲載されている。ここでは、戦後の新制中学校創設期における体育科を中心とした教員の充足状況について、同論文の中から一部分を抜粋し、言及しておきたい。荒川区の中学校は、比較的早くに体育科専任の教員が赴任して体育科専任教員体制が確立した中学校が存在する一方で、体育科専任教員の赴任の遅れや不足により他教科との兼任や時間講師の委嘱で対応した学校も存在するなど、体育科専任教員の赴任状況やその対応は学校によって異なっていた。同論文では、その事例として比較的早くに体育科専任教員体制が確立した中学校として、第三中学校と第五中学校の例を取り上げた。また、他教科との兼任や時間講師の委嘱により体育科担当教員不足に対応した第四中学校と第九中学校の例も検討している。これらの事例の中からそれぞれ比較的早くに体育科専任教員体制が確立した中学校として第三中学校を、他教科との兼任や時間講師の委嘱により体育科担当教員不足に対応した例として第四中学校について述べる。まず、第三中学校の場合は1952年度から複数の体育科専任教員が常に在籍している状態が確立されていた。詳細を見れば、戦後に師範学校等を卒業したばかりの若い教員が多いが、中には戦前に中等教育機関の体操科教員免許状を取得していたベテランが存在したこともわかった。230年月日1947年6月7日1949年3月22日1949年4月23日1957年5月1日1957年10月9日1959年9月23日※『東京都荒川区立第七中学校 沿革史』より作成内容表6 第七中学校におけるPTA発足前後の経緯本校教育協力会は発足以来、役員の献身的な協力と、会員父母の後援により、設備その他万事不十分なる時に当って月一回の定例会数回の臨時理事会を開催し、校舎補修、硝子の入替、小使室衛生室の設備、その他学校諸行事の運営に参画された。校舎補修、硝子入替、教材教具の購入、学校行事への参画を得た。PTA発足独立図書館上棟式落成式 新制中学発足十周年記念式典を兼ねる。当時区内において独立図書館を有する中学校はなく、僅かに五中に於いてその計画が進められていた。(中略=筆者)地域PTAの協力を仰ぎその完成を見るに至った。体育館兼講堂落成式。区内中学校で体育館を有するものは一中一校のみであったが(中略=筆者)同時にPTAをはじめ、地域にも呼びかけ、その協力を仰ぎ、工事が進行していたがその完成半ばにして転出された。

元のページ  ../index.html#236

このブックを見る