早稲田教育評論 第36号第1号
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小学校等に間借りしている状態であったことがわかった。このような戦後、苦しい状況であった新制中学校が、十分な校舎・設備をいつ頃整えることができたのかを窺える資料の一つとして、荒川区の1956年時点の状況を示した『荒川区大鑑』がある。同書では、戦後復興の際の教育行政について「第一に挙げられることは不正常授業が全く解消したことである」と述べている。その詳細としては「終戦以来けんめいな解消へ努力も激増する児童、生徒においつけず不便な二部授業を余儀なくされてきていたのであるが、昭和三十年においては第五峡田、第三峡田、第一峡田、第四日暮里、第一中学等を最後として遂にこれを克服することができたのである」24と述べられている。ここでは「不正常授業が全く解消した」と述べられている。以上の記述から、1956年頃には正常な授業形態を実現できたことが窺える。さらに、その後の荒川区での教育機関の整備計画に関して「施設の面においては改善的施策として小、中学校ともに必要な学校施設を図って通学区域の適正化という面が考慮されなければならない。更に老朽校舎の改築鉄筋校舎の全面的改修と要修理校舎の改修、校庭の整備、水洗可能区域の水洗便所化等が重点的に挙げられることとなろう」25と述べている。荒川区においては老朽校舎などの問題も存在していたが、新制中学校のための校舎建築を将来的にも充実させようとしていたことが窺える。ただ、60年代にもなっても、校舎の設備の老朽化の改善が保護者から陳情されるという状況が続いており26、50年代の課題は完全には解決していなかったことがわかる。そして、荒川区については戦後成立したPTAに関しても多くの資料から分析することができた。PTAは、先述した新制中学校の校舎建設にも深く関わりがあるので、以下、荒川区のPTAの成立とそれが果たした役割について記述する。なお、以下のPTAに関する記述は聶晶晶研究協力員によるものである27。荒川区においてPTAが設立されたのは、1950年代になってからであったが、では、このようなPTAの活動や役割はどのようなものであったのか。その一つとして挙げられるのが、学校設備の資金支援であった。先に述べたように、戦後の新制中学校の校舎・設備の準備は荒川区においても大きな課題となっていたわけであるが、その設備の資金支援としてPTAが活躍する事例が多かった。第二中学校のPTAの活動について『荒川区立第二中学校創立二十周年記念誌(二十年のあゆみ複製版)』では岩倉健治(初代PTA会長)は、校舎の建設について「吉原校長も大変骨を折られましたが、学校ができますと父兄の方々も熱心な協力をされる方が出てきて放送設備とか、特別教室などのことも話題になってきました。ただ当時は教員組合のことがありましたので後援会というものを作り、PTAはPTA、後援会は後援会という別動隊をもって両だてで学校の設備をよくすることにつとめました」28と述べており、PTAと後援会が校舎及び設備の資金支援を行っていたことが窺える。また、第七中学校所蔵の『東京都荒川区立第七中学校 沿革史』には、PTA発足と校舎設立の支援の経過が示されている。その経過を示すと以下の表6のようになる。表6の「内容」の部分を見ると、図書館や体育館といった施設の設置について、PTAが貢献していることがわかる。戦後の物資が足りない状況下においては、PTAは校舎や図書館の建設資金を寄付する役割を担っていたと見ることができる。また、学校の環境づくりについてもPTAが貢献しているのを確認することができた。『荒川区229

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