早稲田教育評論 第36号第1号
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228また、千葉県公文書館では『昭和22年度学校日誌』『陳情書』『昭和22年5月以降聯合軍司令文書』『本校に於ける特別教育活動の姿』『日源関係文書』といった資料を収集することができた。これらの各中学校訪問と資料調査により、多数の資料を収集することができた。その内容としては、中学校の学校一覧や教員の履歴書、校舎の建築計画、PTAとの関係、生徒の進路などに関する資料であった。これらの資料をもとにテーマごとに分析することで、それぞれの研究成果を見出すことができた。次節では、その内容に関して言及したい。上述したように、各中学校への訪問及び資料調査を行うことで、多数の資料を収集することができ、テーマごとに分析することができた。では、戦後教育改革期において、新制中学校はどのような実態であったのだろうか。本研究において対象地域とした荒川区、小田原市、千葉県について、テーマを定めて分析してきたが、紙幅の関係から、各地域、全てのテーマについて本報告で言及することは避けたい。よって、以下、本項では対象地域の中から荒川区を取り上げ、荒川区に対してのいくつかのテーマについて述べていくこととしたい。まず、荒川区における新制中学校がどのように建設されたのかについて言及する。荒川区では「六・三制対策委員会」を設置し、新制中学校の創設準備に入ったとされている。この委員会は区長を委員長とし、区議らが委員になっており、設備関係を検討する第一分科会と管理面を検討する第二分科会を設置した。委員会では当初新制中学校を12校創設する計画であった。当時の模様について、1962年に行われた「中学校一五年のあゆみを語る」という座談会で、荒川区の新制中学校創設に関わったメンバーが集まり、当時の状況を回想している。その際の会話では「当時は一二校舎作ればいいんじゃないかということが考えられていましたね。実際には八校しかできなかったが、一中と六中は独立校だが、二中は六瑞小に間借り、三中は四瑞と航空工業の体育館を借り、四中は二峡、五中は四峡と九峡、七中は大門小、八中は第三日暮里小、とそれぞれ借家住いです」21と述べている。一中と六中以外の中学校は独立校舎ではなく、多くの中学校が小学校等に同居しているような状態であった。また、新制中学校創設時の設備状況についても「生徒の机や腰掛けはもちろん、先生用のものもない。生徒はみかん箱を持ってきて、床にあぐらをかいての授業です。食堂などで使う細長いテーブルを二脚、区教委から配給を受けたのが最初の備品です。青年学校で使っていた備品を分割して各自の学校に運んだこともありました」22と述べられている。このように当時の中学校では生徒のための椅子や机を用意するのも非常に困難な状況であったことがわかる。しかし、新制中学校の運営には独立した校舎を建設する必要があったために、こういった状況にあっても、新制中学校は校舎建築に向けて動き出さなければならなかったのである。当時の校舎建築の状況については「最初に出来たのは六中でしたが、これが壁がなくてテックスがはってある。子供が手で突くと穴が開く始末、しかし私どもはすばらしい学校ができたといって驚いたものでした」23として、完成した校舎であっても「子供が手で突くと穴が開く」状況であったことがわかる。荒川区では、八校の新制中学校が設置されたのだが、戦後直後の物資の困窮のために、その多くが4.資料から読み取れる分析結果

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