早稲田教育評論 第36号第1号
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して一括管理を実施した。上述したように、S県政府は国家教育委員会という中央上級政府の政策に厳しく従って教育施策を実施し、「社会力量」の参与はほとんど無かった。S県政府が中央上級政府の指令に応じて、教育事業の発展や改革に取り組んできた。つまり、この時期においては、政府の一元統制によって教育事業を運営するという統治・コントロールの姿勢が強かった。1990年代は「社会力量」が加速度的に増える時期となり、第二章の分析が示すように、政府は「社会力量」の活動領域や多元的機能を重視してきた。ここで、S県に進出した中国滋根(海外に拠点を持つNGO、貧困地域への教育支援を目的)という団体の例を取り上げよう。草の根の「社会力量」が、教育支援活動に参加し、また物資提供から知力提供へと転換していったことを検証する。中国滋根は、海外華僑が設立した「アメリカ滋根基金会」から発展してきた草の根の組織である。中国滋根は、海外のバックグラウンドを有しているため、中国の農村地域に海外の新たな教育理念を持ち込むことになった。また、教育支援を行う際に、伝統的支援の手法を用いる他の草の根の組織とは異なり、革新的手法を用いることにもつながった。このような特徴は、中国滋根がS県で大きな教育成果を上げる上で重要な要因だったと言えよう。1990年代初期、S県出身の国家公務員であるB氏は中国滋根が教育支援活動を行なっている情報を得て、貧困な状況に置かれている故郷を振興するため、中国滋根にS県を紹介した16。ここから見ると、ひとりの公務員が地域の教育発展を促進するため、「社会力量」をすでに意識していることがわかる。また、NGOなどの「社会力量」が当時の中国で徐々に台頭してきたことの現れでもある。貧困地域であるS県にとって、中国滋根のようなNGOが物資や新たな発展モデルをもたらしている。当初、S県の教育貧困を解決するために、中国滋根が着眼したのは小中学校の就学率の向上であった。奨学金や栄養のある昼食の提供、学校の飲水設備・トイレなどの学校インフラの建設や改善に支援をしていた17。物資提供を主とした支援も、「社会力量」が教育事業に対して支援する際に、政府が最初に重視した内容である。当時の地方政府が直面した最も深刻な課題は、資金不足だったからである。そして、中国滋根は資金調達を通じて、統廃合に迫られていた学校を維持し、またインフラの改善も行なった。こうして、学生に対する良好な学習環境が整った。その後、中国滋根はS県で農村学校のカリキュラム改革を行い、「労働基地」の建設を推進した18。これは、当時の国家労働教育の方針や労働を国家カリキュラムに取り入れる施策に応じていた。中国滋根は、労働教育の理念を推奨し、学生を教科書から解放し、大自然に行かせ、農作業を通じて知識や技能を学習させる試みを行った。また、環境教育を推進し、「緑エコ文明学校」の建設を促進するために、農村教師への教育訓練活動を体系的に展開し、教師の認識を変えることを通じて教育を改革することに取り組んだ19。S県のモデル校では、研修を受けた教師が、「緑エコ文明教育」を行い、学生に環境保全の大切さを伝えた。また、かつての教師を中心とする教授法を改革し、アクティブラーニングを強調し、手作業を通じて学生の主体性を引き出している。2142 「社会力量」が進出した時期(1990年代)

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