一方で、経済発展に伴い、民間の「社会力量」が、人力、財力を蓄え、社会を支える組織としての基盤を確立してきたことがある。社会的な認知度も向上してきた。そのため、教育格差を解消するために、こうした「社会力量」が期待されるようになったのである。そして、対外開放政策の推進に伴い、外国のNGOも教育支援を展開するようになり、国内の地方教育行政、あるいは民間団体と協力しながら、教育支援活動を展開するようになった。さらに現在、グローバリゼーションの進展の中で、中国においては、「小政府、大社会」の政治体制改革が求められている。そして、新しい公共時代となり、教育資源を合理的に配分するために、政府と社会や市場との協力関係がより重要視され、教育の公平性の確保において、「社会力量」の役割が強調されてきたといえよう。第二節の分析に基づいて、政府による「社会力量」に対する認識の変化と結びながら、本章では、政府が地方の教育開発において「社会力量」による参与を重視してきたことを、1980年代の政府主導の時期、1990年代の「社会力量」が進出した時期、21世紀の多元的な組織の連携時期という三つの部分に分けて検証する。改革開放期の初期において、法律文書で「社会力量」というワードの出現回数は少なく、政府が「社会力量」を必ずしも十分に認識していなかった。この時期は、中央政府の一元的な統治と言えるであろう。S県誌に基づいて、具体的に県レベルでの教育行政の状況についてみていこう。中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(1978年)以降、教育の普及課題が重要な議事日程として取り上げられた。1980年、中国共産党中央委員会、国務院は「小学校教育の普及に関する若干の問題に関する決定」を下し、小学校教育の発展を促した。翌年、S県は小学校の入学率、入学児童の定着率、教員資格の合格率の向上に努力し始めた。1985年、中国共産党中央委員会は「教育体制改革に関する決定」を下し、「決定」の精神に基づいて、「地方が学校を運営し、レベル別に管理する」の原則に従って、この年、郷の小中学校の管理権を村に委譲し、教育財政権の一部も下級組織に委譲した。1986年4月、「中華人民共和国義務教育法」が公布され、同年10月、S県の文教局が制定した「9年制義務教育の実施計画」では、1990年までに小学校の教育を普及し、2000年までに9年間の義務教育の目標を実現することが提示された。1987年9月、国家教育委員会、K省政府はS県を農村教育改革実験区と定めた。10月、中共S県委員会と県政府は「S県『七五』(第七次五カ年計画)期間教育改革実験案」を作成して配布した。1988年6月、県委員会、県政府は全県教育工作会議を開催したが、その中心議題は教育募金や学校運営の条件を改善し、教育体制の改革を推進することであった。1988年、農村教育改革発展を推進し、農村の経済発展や社会進歩を促すために、国家教育委員会は農業技術人材を育てる「燎原計画」を公布して実施した。1990年3月、指示を受けたS県は農業科学教育統一指導グループを設立し、その下に事務室を設置し、全県の教育体制の改革に対213三 S県への教育支援事例における政府や「社会力量」の取り組み 1 政府主導の時期(1980年代)
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