早稲田教育評論 第36号第1号
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本論文は、敗戦後の混乱期において多くの中学校長期欠席者を救済する措置として設置された、夜間学級の設置背景や設置経緯及び初期の実態について明らかにしたものである。上述のように、1947年4月に新制中学校が誕生し、義務教育が9年に延長された。しかし、戦後の混乱期において経済的な理由によって昼間学校に通えない生徒が多数現れた。そのような中学校長期欠席者に義務教育を保障する場として夜間中学校が開設された。東京都では1951年に足立区立第四中学校内に夜間学級が初めて併設されてから、1957年までの間に7校の夜間中学校が開設されている。荒川九中夜間部は遅れながら1957年に設置され、新制中学校が発足して10年経ってからのことであった。荒川区は終戦後から多数の長期欠席生徒を抱えており、夜間学級はもっと早く設置されることが望ましかったが、1957年に設置されてからは多くの長期欠席生徒、義務教育未修了者を受け入れ、その指導に当たってきた。荒川九中夜間部は、日本の経済が敗戦後の混乱期から回復してきていたこの時期に、その恩恵も受けられず、国の支援も届かない貧困家庭の救済措置として機能していた。つまり、夜間学級は、家庭の貧困によってやむを得ず昼間働き、夕方は就学する子ども達の受け皿になっていた。冒頭でも述べたように、荒川区は零細企業が多く、貧困家庭が多かった。それに伴い、中学校長期欠席生徒や義務教育未修了者も多く現れた。そのような生徒を救済するために、この時期に荒川九中夜間部が設置されたことは非常に有意義なことだったといえる。生徒の出身地の分析でも明らかになったように、荒川区民のみならず、近隣の地域出身者や地方出身者の受け皿にもなっていた。以下、夜間学級が果たした役割について大きく3つに分類して考察する。まず、義務教育を保障する場として考えられていた夜間学級だが、多方面にわたって機能していたことが明らかになった。学校は、昼間の疲れをいやす場であり、唯一子どもらしく振舞える場であった。教員はそのために、工夫に満ちた指導を行っていた。相談相手にもなり、生徒の健康保持にも努め、生活指導にも当たっていた。次に、夜間学級は経費が一切かからないことで貧困家庭出身の生徒も通いやすかった。昼間の学校の給食費が払えず、長期欠席生徒になってしまった子どもも多かった。昼間働いてから学校に向かう子ども達はお腹を空かせていたため、生活を保障する意味でも給食の役割が大きかった。この経費の無償化には、東京都で初めて夜間学級を設置した足立区立第四中学校の校長だった伊藤泰治の奮闘が背景にあった54。従って、九中夜間部が設置されたときは、夜間学級の経営面の予算はある程度確保されていたとみることができる。3番目に挙げられるのは、やはり中学校卒業の資格取得である。これは生徒達の人生の出発点として着実なものであった。進学にしろ、就労にしろ、一人の人間として生活するのに中学校卒業の資格は大いに役立ったはずである。本来ならば、子どもは義務教育を受ける権利が与えられており、無条件で中学校卒業の資格が取得できるはずであるが、社会制度の不備の影で一部の子ども達には手が届きにくいものになっていた。以上のように、夜間学級が果たした役割は多大であり、大きな社会問題でもある家庭の貧困を背景とし、昼間学校に通えない子ども達に義務教育を与える場だけでなく、昼間の疲れの「オア161おわりに

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