早稲田教育評論 第36号第1号
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   塚原が担任したのは三年生で、一、二年を併せて受け持ったのは中村。吉原校長は「夜学の運営は専任の二人に任せる」という言葉が実行されていた。「生徒を中心に考えてのことならすべて賛成」と校長は荒川九中在任中言い続けたことが荒川九中の夜間学級の自由の気風を育てあげる基底になる35。   準備は始まったのですが、どんな生徒がくるのか、夜間学級はクラスを幾つにしたらいいのか、教科書はあるのか等々二人で顔をあわせては悩んでいました。教室は二階の三教室プラス小振りの一部屋、職員室です。(中略)木造の校舎でしたからよく授業中停電になりました36。150がらない生徒が職員室の真中のコークス・ストーブの周りに、子猿のように集まっていた(お化け煙突もあったんだ)。また、塚原教諭は次のようにも回顧し、初期の夜間学級の運営は生徒の状況に合わせて柔軟に対応していたことを記している。このように、初期の荒川九中夜間部は、塚原と中村教諭の試行錯誤のもとで運営されていた。木造校舎の2階の三教室は裸電球で照明されていた。停電もよく起こり、ロウソクを常備し、教室で立てて授業をしていた。校庭には照明灯がなかったことから、運動をするときは懐中電灯を5、6個も使っていたとされている37。ほとんどの生徒は働いていたため、表情が暗く見えていた。生徒の笑顔を取り戻すために、2人の教諭はいろいろと模索した。1957年6月からラジオ体操やコーラスを始めている。レコードも聞かせていた。「夜間学級生の顔が輝くまでに二年かかった。」と塚原教諭が回顧している38。生徒は疲れてよく寝てしまっていたため、同年9月から職員室に休憩用ベッドを2台置いて使い始めた。この頃の給食は、ジャム、バター、マーガリン、マーマレードのコッペパンと、白湯だけの簡単なものだった。生徒数も徐々に増加し、11月には41名となった。7月には初めてのキャンプ、10月には初めての昼間部と合同で運動会が行われた。ここでは、開設当初より1960年度までの九中夜間部の教育課程や一日の流れ、教職員体制、学校行事などを概観する。カリキュラムは、表2の通り、必修科目と選択科目からなっており、教科は、昼間部と同じく9教科あり、1日4時間授業であった。英語が選択科目だったことがわかる。指導時数は昼間部の2/3の時数を配当することとなっていた。日課は、表3の通り、17:30分から20分間は給食の時間にあてられており、その後17:50から20:50まで授業が実施され、授業の間に10分間の休憩時間が設けられている。最後に、清掃やホームルームが行われ、21:30に下校となっている。1961年度になると、表4のように教員の業務分担が細かくなされており、夜間部の組織体制が整ってきていたことがわかる。また、専任教諭も1957年度は2名だったのが、1958年度には4名となり、1959年度から生徒数にかかわらず6名の専任教諭が就く体制となっている。専任教諭は十分な人数が確保され、指導2-2 九中夜間部の教育の実態

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