早稲田教育評論 第36号第1号
153/258

   本校の夜間学級の産みの親は昭和二十六年から四十二年まで荒川区議を四期十六年間勤めた小柳晴彦氏である。小柳氏は地元の生え抜きであり、何校ものPTA会長の経験もあって教育に関心が深い。教育問題の相談も父兄から気軽に受ける世話人である。近所に競輪の選手を希望する少年がいた、何とか運動をして採用されそうになったとき、中学校の免状が必要になったから何とかならないかという相談を少年の父親から受け、学校長に相談をしてみたが、長欠生徒だったので免状は出せないという。そういう例は多い。荒川区には夜間中学がないから足立の方の四中に、将来は足立区に住むという一札を入れて小柳氏が入学させた少年もいる。教諭は「夜間学級産みの親」と題して『創立25周年記念誌』に以下の記事を載せている22。以上のように、1951年より荒川区議会議員を務めていた小柳氏は保護者から教育相談を受けることもあり、長期欠席生徒に対する問題意識が高かった。その対策として夜間学級設置を考えていたが、すぐには実現できず、夜間学級創りの夢は2〜3年続く23。小柳区議が、夜間学級開設の一回目の提案をしたのが1955年であった24。さらに、小柳区議は、1956年2月13日の第一回臨時会で、区内の長期欠席者の実情を紹介し、夜間中学校開設の必要性を訴え、区長に夜間学級設置を提案する。当時の村上勇三郎区長は、区内に約5,000人の長期欠席者がいる現状を認め、各学校長に実態調査を依頼し、その結果を踏まえて、各町単位に夜間学級が開設できるよう努力したいという積極的な答弁をした25。この後は、夜間中学校開設にあたり、現行の学校教育法との運用のあり方が問題とされ、実現出来なかった。1956年3月12日の第一回定例会では、再度質問に立った小柳議員は、一人の少年が足立区立第四中学校夜間学級に入学できないかという相談を受けた事例を取り上げ、教育長にその改善を求めた。1956年8月28日の第二回臨時会でも遠田米吉議員が夜間中学校の開設について質問しており、議会で活発な議論が行われた。1956年になって教育委員会の中にも夜間学級開設の気運が高まり、■飾区立双葉中学校や、墨田区立曳舟中学校夜間学級の参観や実情調査が行われた。その結果、予想以上の実績が上がっているのに力を得、区立中学校長会と合同の会議をもち、夜間学級開設の具体的な協議がなされた26。その前には、横浜市における夜間学級の視察も行われている27。中学校長会に夜間学級設置の相談がされると、「夜間中学校が出来ると昼間部の生徒が夜間に流れてしまう」と多くの反対意見があった。それに、小柳は「親たるものが大事な自分のこどもを昼間遊ばせて夜の中学校に通わせるはずがない」と反論した。校長の中に反対する声があっても夜間中学校を区内に一校作ろうという小柳区議の意志は揺るがなかった28。いろいろ検討を重ねた結果、ついに荒川区も夜間学級の必要性を認め、その設置を決定した。これを受けて区教育委員会は、1956年11月9日、東京都教育委員会に対して「区立中学校夜間学級設置について」という設置理由書を申請し、翌1957年2月1日に受理された。第九中学校が選ばれた理由として、上述のようにその時の校長吉原仁氏の影響が大きかった。塚原教諭は「東京都荒川区第九中学校の夜間学級の併設に積極的だったのは、同校初代校長の吉147

元のページ  ../index.html#153

このブックを見る