146荒川区は戦争の被害を相当受けており、総面積の45%も「焼失の憂き目を見た」とされている15。戦災前にあった小学校30校のうち、5校が廃止され、中学校を新たに9校増設する必要に迫られた。人口は激増し、教室の絶対数が不足し、二部授業を行わざるを得ない状況にあった。また、荒川区は荒川沿いに位置し、商工業が盛んな地域であり、東京で有数の産業区であった。1956年頃は、敗戦後の混乱からようやく立ち直り、「神武景気」とも言われていたが、零細工業地帯に限っては貧困世帯が依然として多く存在していた。東京都全体の長期欠席者の割合は、1952年度は3.87%、1954年度は2.68%、1956年度は1.86%となっており、減少傾向にあったが、荒川区においては、1956年度の長期欠席率は、3.66%と高く、東京都全体の2倍近い割合であった。欠席の原因は、やはり経済的な理由によるものが高率を占め、1955年度の荒川区の「中学校理由別欠席者数」によると、「家計の一部又は全部を負担」が一番多く、次に「教育費が出せない」となっている16。足立区、八王子市、立川市、■飾区、墨田区、太田区、世田谷区に夜間中学が誕生した時期に、荒川区においても夜間中学校設立の気運はあったが、なかなか実現には至らなかった。その時期に実施できなかったのは、当時の区教育委員会そのものが不安定であったからと推測されている17。次に、世田谷区立新星中学校が発足した1954年5月と同じ時期に、京都市の旭ヶ丘中学では、いわゆる「偏向教育」の問題が起こり、教育二法案が政治問題になっていたこと18や、1956年には、教育三法として、「新教育委員会法」、「教科書法」「教育制度審議会法」が取り上げられ、6月に新教育委員会法が、可決・成立したことなどの政治問題が、荒川区における夜間学級の設置を遅らせた要因として挙げられている19。それから、荒川区の長期欠席者対策が遅れた背景には、荒川区が中学校の校舎を造ることで精いっぱいだったことや、夜間学級を設置する余裕がなかったことが挙げられる。また、校長の中に夜間学級設置に対する反対者がいたことなども影響したと考えられる。そのような中、荒川区教育委員会を踏み切らせたのは、1955年11月に、夜間中学全国大会に、当時の文部大臣だった松村謙三氏を出席させることができたからだとされている20。第九中学校が選ばれた背景には、設置当時の校長の吉原仁氏の影響力が大きかったことがあった。多くの中学校校長が夜間学級設置に対して反対だったことと対照的で、吉原校長は積極的であった。設置当初の九中夜間部の専任教諭だった塚原雄太氏が「この辺で忘れてはいけない人たちを思い出してみますと夜間学級を第九中学校に誘致したのは当時の校長吉原仁さんです。忘れたら罰があたります。」と回顧している21ことからも夜間学級設置に当たり吉原校長の役割が大きかったことが窺える。上述のように、九中夜間部の設置に当たり吉原校長の役割が大きかったが、その前の動きとして荒川区議会議員であった小柳晴彦氏の尽力が欠かせないものであった。小柳区議について塚原1-4 荒川区における夜間学級設置の背景と遅れた要因1-5 九中夜間部の詳しい設置経緯
元のページ ../index.html#152