早稲田教育評論 第36号第1号
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 3)その中学校の二部授業として取扱うこと。 4)名称は特別に用いないこと。 5)入学者の身許其の他の調査は教育庁に報告すること。 6)生徒の保健衛生に留意すること。 7)その他運営については、諸法令に違反しないようにすること。これを受けて、1951年7月5日、荒川区及び都の教育委員会より「試験的二部学級開設」の認可を受け、同年7月16日に、足立区立第四中学校第二部として、東京都初の夜間中学校が発足した。入学式には4名の生徒しか集まらなかったが、その後、生徒数は急増し、約1ヶ月後に50名に、2学期を迎えた9月には68名に達し、1年後には110名まで増加し、1年4か月後には242人と倍増する。この生徒数の増加は、夜間学級を頼らざるを得ない生徒がいかに多かったかを如実に表しているといえるだろう。■飾区も、零細企業が多く、貧困家庭が多かった。食べることに精一杯の保護者は、子どもを学校に通わせるよりも働かせることを望んでいた。1953年の■飾区の長期欠席率は、足立区・荒川区に次ぐものであり、4.58%にも及んでいた。こうした長期欠席者の増加が区議会で問題となり、行政が対応を考えるという過程で夜間学級設置の発想が生まれた。双葉中学校が選ばれた背景には、空いている木造の独立校舎があったからである。1953年4月20日に入学式が行われ、本校も、わずか4名の生徒で出発することになる。生徒数は、その後10名ほどになったが、1953年末には92名にまで増加した。墨田区は、都内でもっとも工場数の密集した小企業・零細企業地帯であった。足立区や■飾区と異なる点は農業が皆無であったことである。1950年頃には、工場数が5,000を越えていた。1953年の区内中学校の長期欠席率は3.4%で、同年東京都内の平均長期欠席率3.19%を少し上回る程度であった。また、区内に地方の義務教育未修了者が多くいた。1952年10月の墨田区教育委員会選挙に立候補した高石常三郎と射越利喜雄の両氏が「夜間学級設置」を公約として掲げ、それぞれの候補が当選したことが影響して、「夜間学級設置」が区教育委員会の政策の一つに置かれた13。設置にあたり、区教委育委員は1953年1月に、足立区立第四中学校二部を視察している。曳船中学校に夜間学級が設置された理由は明確ではないが、1953年2月付で、「墨田区立中学校第二部設置概要」が区教育委員会に提出され、区教育委員会は東京都教育委員会に設置認可申請を提出し、同年3月16日に東京都教育委員会は上述の7点の条件を提示し14、設置を認可している。1953年5月1日には、夜間学級が設置され、76名の生徒を迎え、6月20日には151名へと生徒数は約2倍に増加した。その後は、1953年9月に大田区立糀谷中学校内に、1954年5月には世田谷区立新星中学校内に夜間学級が設置されている。一方、荒川区は新学制発足当初から多数の長期欠席生徒を抱え、区教育委員会はその対策に苦慮していたが、荒川区における夜間中学校の開設は1957年を待たなければならなかった。1451-3 葛飾区や墨田区における夜間学級設置状況

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