注1 「作新民」の重要性を初めて意識したのは梁啓超という中国清末民初の革命家であった。彼は「新民説」の中で、「新民さえいれば、新制度、新政府、新国家がなくとも、何ら患うことはない」と国民の近代国家の構成においての重要性を述べている。2 1924年、国民党総理孫文は「国民政府建国大綱」の中で、国の建設順序は軍政期、訓政期、憲政期の3段階とすることを定めた。軍政期は戦争によって全国の統一を目指す。次の訓政期は、国民党が政府職権を代行で行使し、同時に教育によって民衆が政治的諸権利の行使に習熟しようとした。最後の憲政期は国民党が功遂げ身を退き、国民が国を統治する権力を行使する。3 趙冕『社会教育行政』,商務印書館,1938年,143〜144頁。4 彭大銓『民衆教育館』,正中書局,1947年,4頁。5 江蘇省立徐州民衆敎育館研究委員会『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』,1933年,53頁。6 周慧梅『近代民衆教育館研究』,北京師範大学出版社,2012年。7 朱煜『民衆教育館与基層社会現代改造』,社会科学文献出版社,2012年。8 毛文君「社会教育的興起与城市文化的変遷─以成都市民衆教育館為中心的考察─」,『成都大学学報(社会科学版)』,2006年第1期,32〜36頁。9 周慧梅「集体儀式与国家認同─以山西省立民衆教育館為考察中心─」,『天津師範大学学報(社会科学版)』,2018年第1期,57〜63頁。10 李冬梅「抗戦前江蘇省立民衆教育館事業活働述評」,『揚州大学学報(人文社会科学版)』,2010年第14巻第06期,90〜95頁。11 「我們的路線」,『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』,1933年,1〜2頁。12 他には、「定額物租」:麦三斗、秋三斗、「半半分租」:種子や家畜の半分を貸し付け,農産物の半分を徴収、といったような田租があった。13 前掲(11)「我們的路線」,2頁。14 「土圩子」という居住形態については、真ん中には砲楼がそびえて、その周りには小さな低い土の家がたくさんあり、農民はこのような土の家に住んでいた。砲楼が守っているのは、この地方の実際の支配者であり、多くの場合は地主である。15 「本館之工作概要」,『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』,1933年,99〜263頁。け、農民たちの「存亡」に関わる生計教育についての職員は最も少なく、経費の不足による事業の中止も見られていた。そして、具体的な事業展開については、徐州民教館は主に生計教育、国語教育、公民訓練といった三つの側面から民衆に向けた全面的な改良活動を行った。しかしその多くでは、破産的状況に瀕していた徐州の社会状況や、日々生き延びるために苦闘していた民衆の要求との齟齬が生じていたことが見てとれる。当然、事業の展開に伴い、試行錯誤を経て一部の事業に対する調整があったが、民衆の参加は表面的なものに終始しており、より深く参加していこうとしなかったのである。その理由について、本稿は当時の徐州地区には、徐州民教館が展開した事業を民衆の身につけさせる機会が少なかったため、事業と地域社会・一般民衆の関係が深化せず、民衆のより深い参加ができなかったためであると推測できる。本稿では南京国民政府が主導した民衆教育館の実践に焦点を当てて議論を行った。今後の課題として、行政以外の当時の社会教育に関わる知識人たちの動きを検討しながら、南京国民政府時期の社会教育の展開を総合的に検証したい。138早稲田教育評論 第 36 巻第1号
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