南京国民政府時期(1927〜1949)における民衆教育館の展開 ─徐州民衆教育館の取り組みを中心に─民教館の実践には強く限界が感じられた。また、民衆の参加に関しては、最初は冷ややかな目で見るだけだったものが徐々に参加するようになったといえる。しかし、このような「参加」は、①閭隣長などの指示に従う(民衆学校)、②一時的な利益のための参加(民衆無利子貸付処、特約農田)、③感謝の気持ちで参加(路工慰労団)といったものである。時間を経てもその参加は表面的なものに留まり、より深く参加していこうとせず、転々としていたことが窺える。ここでは、蘇南の事例と比較しながら、どのような事業展開を行えば民衆のより深い参加が可能であったのかということを検討していきたい。蘇南にある鎮江民教館は1934年工芸学習所を開設し、タオルや肌着、靴下といった布製品の作り方を民衆に教えながら働く場所も提供していた。生計問題に困っていた民衆たちにとって、学習と仕事がリンクしており、学習そのもののやりがいが自然に体得できたことから、生計に困っていた民衆たちは意欲高くて活動に参加するようになった。このような工芸学習所では男女問わず参加はできるが、不識字者の場合は民衆学校に入学しなければ不可というルールが定められた36。そのため、実生活との関連が薄い識字教育にもたくさんの参加者がいた。しかしこのようなことは、元々産業の発展が進んできた江南地区だからこそ、実践できたのだと考えられる。徐州民教館でも工芸学習所のような事業を展開しており、タケカゴの制作を行っていた。しかしそこで作られたタケカゴさえ売れず、赤字であった。民教館が展開した事業の違いではなく、地域そのものの格差が民衆の参加意欲の差が発生したと考えられる。ブラジルの教育思想家パウロ・フレイレは成人識字教育を行った際に、教育の実生活とのつながりの重要性について提起した。大衆の置かれた状況に確実に存在する「事実の現実的かつ具体的な文脈」の中で、大衆に「真の知識」を教えたために、民衆が教育の必要性を認識するようになったとフレイレは考えた。それを踏まえ、民教館の事例を振り返ってみると、やはり同じ事業が行われたにしても、地域社会にはその事業から身につけたものが身体化される機会があるかどうかということは、事業の定着を左右する要素であり、重要な課題であると思われる。本稿は、江蘇省の蘇北に位置する初めての省立民教館である徐州民教館に焦点を当て、徐州民教館の展開及び民衆の参加を考察した。1928年以来、南京国民政府は「作新民」という当時の時代の要請に応え、民衆教育館という社会教育施設を拠点として一般民衆に対する啓蒙・教化を行った。とりわけ当時の首都であった南京を擁する江蘇省では民衆教育館が非常に発達し、民衆教育館数は全国一位だった。しかし江蘇省においては、豊かな蘇南とは対照的に、蘇北には未だに貧しい農村が数多く存在した。こういった地域間の経済格差は、教育にも反映されることとなった。1932年、徐州民教館は長い準備期間を経て漸く開館に至った。徐州民教館は省立並みに数多くの社会事業を展開し、また江蘇省立教育学院や江蘇省立師範学校の卒業生など、優秀な人材を招集した。一方で組織の変動や職員の流動は頻繁であり、さらに管轄地域は江蘇省面積の 4/1を有する広い地域にもかかわらず、教育庁が支出する経費は他の省立民教館より些少なものであった。これらは事業の展開に支障を生じさせていた可能性があると推測できる。とりわ137終わりに
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