出典:『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』35より 筆者作成136招待組(6名)湯茶を用意し、麻ひもや木板などの作業工具を提供する講演組(4名)総理の兵工政策の内容や一般教養に関する講演を行い、『兵工小日報』を配布する音楽組(5名)休憩時間に、京劇の出演や楽器の演奏を開く編集組(3名)兵士たちに道路修築に関する意見や感想を求め、それを編集して毎日『兵工小日報』を出版する改進会は民衆と兵士たちが共同で作業を行うことを主張したが、実際に道路を修築したのはほとんど兵士であった。そして、道路の修築に疲れた兵士たちを癒すために、改進会は招待委員会を組織した。具体的な仕事内容は表11に示したような湯茶の提供や、講演、また音楽の演奏である。また、民衆たちは「路工慰労団」を結成し、豚2匹とあわ飯を用意して兵士たちを招待し、軍民交歓会を開いた。このような道路構築に対して、改進会は、①民衆の兵士への疑惧心の解消、②民衆の責任感の喚起、③民衆の怯懦の克服、④民衆の協力の促進などの点を評価した。しかし、ここでは、道路修築において民衆がいったいどのような役割を果たしたのかということを改めて考えたい。道路修築の提案や計画、建設局との連絡、軍隊・政府官僚の招待は地域エリートを中心とする改進会の委員が行った。そして実際に2ヶ月をかけて道路を修築したのは兵士たちであった。民衆は開会式の「観衆」、道路修築の際に兵士へのお茶出しをする「お茶当番」、お祝い御飯を用意して「感謝を伝える者」、という役割を果たした。ここには民衆の自発性や主体性が見られず、傍観者として無力な存在、ただの「恩恵を授かる者」に過ぎなかったといえる。1932年、徐州民教館が江蘇省の最も貧困地域であった「徐海地区」に設立され、大衆に対する啓蒙・教化が行われた。徐州民教館は仕事を始める前に、徐海地区に対する社会調査を行い、地域の経済や社会状況を把握しようとした。しかし、実際に展開された事業や人員配置からは、①徐海地区の最も重要かつ緊迫した課題であった農民の生計問題に関わる部署には職員が最も少なかった、②生計教育の主な事業である合作社は、資産を持たず、生活に追われる貧農には入社する機会が与えられなかった、③徐海地区の民衆たちはお茶を飲む習慣がなかったが、娯楽施設として民衆茶園を設立した、などのように社会の状況や大衆の要求と乖離した活動が展開されたことが見て取れる。一方で、事業の展開に伴う試行錯誤を経て、また当時の社会状況によって一部の事業に対する調整がなされたことも読み取れる。例えば民衆茶園や合作社を中止し、代わりに民衆無利子貸付処を設立した。こういった調整によって、知識人は自らの実践を反省しながら、民衆の要求また徐海地区の社会状況をより正確に察知し、対応することができるようになったといえよう。しかし、崩壊寸前の社会状況、限られた経費や時間、民衆に対する僅かな影響力などの要素によって早稲田教育評論 第 36 巻第1号表11 招待委員会の仕事内容三、考察:徐州民教館の展開と民衆の参加
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