早稲田教育評論 第36号第1号
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南京国民政府時期(1927〜1949)における民衆教育館の展開 ─徐州民衆教育館の取り組みを中心に─表10 下澱郷村改進会の委員職務下澱郷郷長名前職務傅景成下澱村閭長李貴祥八里郷郷長李殿邦石橋小学教員民衆を民衆学校に参加させ、国語、常識や算数などのことを勉強させることは極めて難しかったと考えられる。前述のように、公民訓練においては多種多様な事業が展開されていた。その中で長年続いたのは改進会という事業であった。体系的民衆の自治能力を訓練する場と考えた改進会は、前の合作社と同じように、徐州民教館のみならず全国範囲で広がった。ところで当時の改進会は二種類に分けられる。一つは組織の安定さを重要視する改進会である。このような改進会は「下から上」へと組織され、基盤である一般民衆に対する徹底的な訓練が行われた。もう一つは組織の効率を重要視する改進会である。このような改進会は「上から下」へと組織され、一般民衆より地域エリートを積極的に組織に吸収した。実行への時間を考慮したことから、徐州民教館は「上から下」という改進会を選択した。つまり、改進会では、まず地域のエリートを代表する先覚者を集め、彼らが民衆の模範として道路修築・河川浚渫などの地方事業を推進し、意図して地域の一般民衆に影響を与えようと意図した。初めて設立された改進会である下澱郷村改進会においては、委員9名はほとんど地域エリートであった。この改進会は成立してから道路構築という地方事業を展開した。以下、道路構築という下澱郷村改進会が成立以来、初めて主導した地方事業に焦点を当てながら、改進会はどのように事業を展開したのか、また一般民衆はこの中でどのような役割を果たしたのかを論じる。1933年3月、9名の改進会委員は道路修築の計画を取り上げ、徐州建設局に連絡し、道路の測量や地形図の作成を依頼した。しかし建設局局長はちょうどそのタイミングで離職し、その後の幾度にわたる催促も梨の礫となった。4ヶ月が経ってようやく一枚の縦断図を受け取った。同年9月、改進会委員会では、道路修築のような大掛かりな事業は疲弊した民衆にとって過重なものであったと考え、改進会は徐州に滞在する兵士を招き、民衆と共に道路修築に参加させることを計画した。9月8日、館長趙光濤は改進会を代表し、徐州警備司令部に連絡して兵士の道路修築への参加を協議し、李延年司令から承認を得た。そして9月18日には閭隣長を集め、談話会を行って事業の分担や経費の調達などの問題を議論した。9月26日にはようやく開会式が開かれ、徐州警備司令や公安局長、教育局長、建設局長といった政府官僚、民教館や改進会の関係者、兵士たち、一般民衆など、数千人が参加した。名前呉凱張歩堂下澱郷副郷長張玉霖県立実小教員出典:「生計改進部工作報告」34より 筆者作成名前高鳳楼八里郷副郷長王文謨高頂第一閭閭長徐家実前瓦房村長135職務3.公民訓練

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