32020007 8 2 1 2 2 0 015 9 4 0 0 3 0 114134このような学習者に対する動員に関しては、1934年までの間では主に卒業生による宣伝や広告の配布、また口頭宣伝といった三つの方法を用いた。そして1935年から、動員の際には図書宣伝や学生募集隊の結成などの新たな方法が試された。これらの方法の中で、特に卒業生の紹介や地域エリートの宣伝、または教員の説得などの地域の人間関係を通して動員するということが重要視された。しかしながら、どのような方法でも教える側が一方的に勧める姿勢が強く、民衆の自発的な参加は見られなかった。結果、1933年から1936年の3年間、民衆学校の卒業人数は合計1,294人であった。一方で、徐州民教館が行った社会調査の結果では三つの実施区の歳失学者数は11,875名であり、つまり子どもを除いた民衆学校の卒業生数は失学者数の1割未満であった。そのような結果になってしまった理由は、以下の3つであったと考えられる。まず、民衆学校の教員は民教館の職員が兼任するという形で確保された。職員はもちろん本職があるため、民衆学校の仕事は業務時間等の制限があり、十分に発展できなかった。また、教室不足も民衆学校の規模を制限した。当時の民衆学校の教室は寝室と同じ大きさで、採光と換気が教室として不十分であった。このような環境のため、教室の準備に殆どの経費が費やされ、県立民教館から6脚の長椅子を借りた。椅子の数が足りず5人で窮屈な状態で使用しても30人しか入れないため、クラスの人数は30人と決められた。特に児童班は、応募しても入学できなかい場合が多かったというのが現実であった。もう一つは、学習者個人の生活状況によるものである。1935年出版された『教育新路』には、1934年度の民衆学校の中退人数とその理由が発表された。当年度、約3割の学習者が中退している。その理由のうち農生産など生計のために多忙であり、学習が継続できなかったということが最も多かった33。また、家を挙げて村を離れたため、学習を断念せざるを得ない状況に追い込まれる例も少なくなかった。個人の生活や社会の状況が不安定の当時では、生活にさえ余裕のない 741 192 68 80 184 9 201,294早稲田教育評論 第 36 巻第1号表9 民衆学校の卒業人数卒業人数1933年各年度の班数1934年1935年14初級成人 4初級婦人 2高級成人 0高級婦人 1児童 1職工 0店員訓練32合計出典:『教育新路』1938年第116、117期32より 筆者作成1936年
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