132しかし、愚・窮・弱・私という四つの欠点を抱えた農民たちは信用できるのかという問題がある。この規程によると合作社は慈善団体ではなく、当然ながら社員の多くは元々資産のある者である。そして資産を持たず、生活に追われる貧農は入社する機会が与えられず、現実には合作社の利益を享受できなかった。合作社が設立された際は、ちょうど3月という農産物が欠乏する時期であった。困窮している者は「借金しようともできなかったため、10軒に9軒が空き家になり、残る者は毎日麦水で生き延びる……」27という現状となった。それゆえ民教館は暫定的に合作社の設立を中止し、先に民衆無利子貸付処に取り組んだ。1934年3月に設置された民衆無利子貸付処は小商いの起業資金として無利子での貸し付けを行っていた。貸付金の上限は4元で20週をかけて毎週1/20を返済するものである。滞納対策として、①毎回返済の際に「領収済」を捺印する。②時間内の返済は真っ直ぐに捺印し、滞納に対しては斜めに捺印する。③一回滞納があれば、次回の貸付の際に厳しい審査を受ける。三回の滞納になれば、貸付は中止となる、などが行われた。このような厳密なルールが定められたにもかかわらず、民衆は時間通り返済するという習慣を身につけていなかったことや、また1936年には自然災害による被害が発生しており、物価高騰で生活が苦しかったことなどが重なり、期限通りに返済できない者は4割程度も存在した。そして1937年から、民衆無利子貸付処の事業は一時中止された。ところで、民衆無利子貸付処の利用人数を見れば、毎年多くの人々がお金を借りることができたことがわかる。この意味で民衆無利子貸付処という事業には意義があったと思われる。出典:「五年来的生計部」,『教育新路』,1938年より28 筆者作成早稲田教育評論 第 36 巻第1号表6 民衆無利子貸付処の利用状況
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