南京国民政府時期(1927〜1949)における民衆教育館の展開 ─徐州民衆教育館の取り組みを中心に─図2 徐州民教館の職員と学習者たち20また、徐州民教館周年記念特刊には職員らの写真を掲載されている。写真には職員らのスーツや人民服といった制服を着た凛々しい姿が見られる(図2)。それと対照的に、学習者である一般民衆は相変わらず長着のような伝統服を着ていた。教える側にいる人たちと教えられる側にいる人たちは民衆教育館という同じ空間にいるにもかかわらず、お互いの隔たりが強く感じていた。そのような封建社会に沈んでいる民衆たちに対して、民衆教育館は数多くの事業を展開し、生活習慣や趣味、また服装、家族関係など民衆に対する全面的な改革を行った。また、質の高い職員を擁した一方で、徐州民教館には職員の離職が多発していた。1934年の報告によると、1934年に退職した職員は12名おり、残りの27名のうちわずか8名が1937年まで働き続けた。中でも生計部職員の離職が顕著で、1938年の『教育新路』では5年間の生計部の人事異動について以下のように述べている21。生計教育部は成立当初、石暁鐘は主任を務め、また各股に幹事を設置して田維中、葛廷棟などが分任した。職員数は各部署で最も少なかったのである。1934年春、組織調整に伴い、張鴻典は合作股の幹事として招聘された。1935年、田、石、張、葛などが相次いで離館した。その後、孫建之は主任を務め、合作課幹事も兼任した。周有台が農事課幹事、司紫石が調査課幹事、孫晋慈が助手として任命された。1935年末、孫は辞任し、1937年度前学期終了時まで晋懐礼と葛廷棟が主任を兼任した。しかし二人は下淀農民生活学校の教員も務めており、事実上両立はしていなかった。故に生計部の事業は他部の職員が兼任した。例えば、合作指導は王庄実施区主任の項際雲が兼任、副業普及は石橋実施区主任の張雁実が兼任、農業事普及と造林運動は葛廷棟が兼任、農業改良は壩子街農場が経営し、周有台が兼任した。孫晋慈は無利子ローンの事業を担当したが、1936年に離館した後、放送局幹事の陳炳炎がその事業を担当した。(後略)このように、農民たちの「存亡」に関わる生計部において職員は最も少なく、離職も後を絶たず、人材不足に陥っていた。このことは事業の展開に大きな影響を与え、深刻な事態を引き起こ129
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