915畝は地主が所有したもので」11と記述されており、多くの農民たちは地主から耕地を借りて生活を維持していたことが窺える。さらに、徐海地区には特有の田租と高利貸があり、その金利は江南地区の2〜3倍程度であった。ひどいケースでは地主が農民に必要な種や家畜を貸し付け、収穫後に生産された農産物の8割を徴収するという「二八分租」なども存在した12。この状況下で、村には「150戸のうち120戸は借金があった。借金のあるほうが逆に生活に余裕のある農民であり、貧農は借金さえできない……」13などと言われていたのが、当時の徐海地区の現実であった。また、徐海地区の基本的な生活単位はそれぞれの「土圩子」14であった。「土圩子」という居住形態により、よその匪賊や資本主義の侵入へと抵抗する同時に、「地主政権」という独自の政治様式が形成された。「土圩子」には県政府による法令や管理は浸透しない。その代わりに、地主を代表する地域の支配者は、単純な利害と旧習によって、村を管理し、紛争を処理する。大きな権力を握った地主は小作人(佃農)を拷問し、捕まれた匪賊をその場で首斬り・生き埋めにすることさえあった。このような深刻な実態に陥った徐海地区に対して、徐州民教館は①農村の生産力を復元するために、生計教育を行う、②自治的な社会組織を作り出すために、公民訓練を行う、③社会の文化水準を高めるため、国語教育を行う、という三つの教育方向を定め、表1のように数多くの社会事業を行った。しかしながら、こういった一つの場所で数多くの事業を展開することに対して、当時では民衆教育館が「社会教育のデパート」と呼ばれ、低く評価されたこともあった。これらの事業は一見かなり豊富に見える一方で、個々の事業の質はどのようなものであったのかということについて検討する必要があると思われる。1932年、教育部は「民衆教育暫定規程」を公布し、民衆教育館の組織体制に関しては最低限の出典:「本館之工作概要」15より 筆者作成126①農事:農場の購入、林場の購入、信用合作社の展開、特約農家、害虫対策(農薬)の普及、養鶏事業の普及、倉庫の運営、物価調査、農事調査、農民画報の編集、②工芸:枝編み工芸の普及、麦わら帽子の制作、棒針編みの普及、労働者生活指数の調査、③商業:商業普及学校、国貨展覧会①自治組織の形成:閭隣長の選出・就職、和解委員会、②自治訓練の実施:閭隣長談話会、世帯主談話会、警士訓練班、模範家庭選出、壁新聞・プラカードの整備、受信機で時事の視聴、③民衆自治団体の結成:市民改進会、郷村改進会、連村自衛団、連村消防会、養路委員会、民校卒業同学会、④民衆集団的訓練:各種記念会、各種集会、民衆講座、⑤自治事業の展開:研究委員会との連携(社会調査)、郷鎮公所との連携(人事登録)、地方建設(道路修築、橋の修築など)、⑥社会悪習の除去生計教育公民訓練国語教育民衆学校、流動教学、代筆問合、図書室・閲報室、民衆識字処、指導改良私塾、読書会、国語研究会、民衆識字テスト、識字水準調査、 国語教育に関する試合、父母談話会など早稲田教育評論 第 36 巻第1号表1 徐州民教館の事業内容(二)徐州民教館の内部統制1.組織体制
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