早稲田教育評論 第36号第1号
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南京国民政府時期(1927〜1949)における民衆教育館の展開 ─徐州民衆教育館の取り組みを中心に─業、例えば識字教育や公民訓練はどのように展開されたのかということに重点を置いて論じたものである。しかし、これまでの研究は民衆教育館、あるいは民衆教育館が主導した事業に重点を置いたものである。これらの事業への参加主体である一般民衆の反応や参加度などに対する検討は不十分である。また、ミクロの視点で一つの民衆教育館の展開に着目し、民衆教育館の実態を捉えた研究も数多くなされてきた(毛文君(2006)8、周慧梅(2018)9、李冬梅(2010)10)。これらの研究は多様な視点から民衆教育館の展開を捉えているが、その多くは事例紹介レベルにとどまっている。これらの先行研究によって、各民衆教育館に取り込まれた事業は共通点もあれば相違点もあったと見られる。しかしながら、そこに共通点がある理由は各民教館が置かれた社会状況は類似したことなのか、あるいは国民政府の命令によって同じ事業を展開せざるを得なかったのか。また、同じ事業でその効果は同じかなどについての論述は不十分である。つまり、民衆教育館をより精緻に検討するためには、当時の社会状況を踏まえながら民教館の事業展開を分析し、さらに地域間での比較が必要である。研究方法としては、主に史料を考察することによって論を展開する。史料に関しては主に徐州民教館が出版した『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』(1933. 10)と機関誌『教育新路』(1932−1937)を取り上げる。また、蘇南の民教館と比較するために『教育与民衆』(江蘇省立教育学院)、『民衆教育通訊』(鎮江省立民衆教育館)、『民衆教育』(南京省立民衆敎育館)といった他の民衆教育機関の出版物も参考とする。1930年までに江蘇省で設立された省立民教館の全ては豊かな蘇南に位置しており、広大な蘇北には一ヶ所もなかったため、1930年に江蘇省教育庁は、徐州民教館の設立を決意した。しかし当時は教育庁からの経費の支出が困難であり、徐州民教館の開館は引き延ばされた。1931年、江蘇省社会教育科科長の座から退職した兪慶棠は、蘇北の民衆教育の状況に懸念を抱き、徐州民教館を確実に設立することを復帰の条件として、江蘇省教育庁庁長周仏海に表明した。周はそれを承諾し、兪慶棠などの8人を徐州民教館の準備委員に任命し、7月23日に第一回準備委員会を開いた。しかしその後、満州事変が起こり、その余波は上海や江蘇省にも飛び火した。準備委員らは救亡運動に身を投じるようになり、経費の支出も再び困難となったため、徐州民教館の開館準備はいったん中止された。1932年1月、開館準備委員会が再開されて準備期間を3ヶ月と決めた。4月末、江蘇省政府は開館式を5月1日に開催することと、館長(趙光濤)の任命を決定した。徐州民教館は2年間、紆余曲折を経てようやく成立した。その管轄地域は「徐海地区」という江蘇省の北部とされた。「徐海地区」は江蘇省面積の1/4を占める広い地域であった。面積の97%は農村社会であり、約600万人の人口を有したが、人口密度は234人で豊かな蘇南の半分くらいの集積度しか持っていなかった。しかし、これは決して農民たちが広い土地を所有していたことを意味するものでは決してなかった。徐州の周辺にある村については「自耕農は二割未満……1,600畝の耕地のうち、125二、研究結果(一)徐州民教館の設立経緯と社会状況

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