早稲田教育評論 第36号第1号
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た。ここで本稿が着目するのは、南京国民政府による民衆教育館の展開の実践であった。1928年、北伐(国民党による全国の統一を目指した戦争)の完成と伴って、南京国民政府は基本的に全国統一ができた。その後、国民党政権は「軍政・訓政・憲政」の三段階2に基づいて訓政期の開始を宣言し、この時期の主な目標は民衆が政治的諸権利の行使に習熟できるということである。それを実現するために、1928年5月、江蘇省教育局が全国教育会議で「民衆教育案」を公布し、教育を通して「無知蒙昧」の民衆を喚起して健全な国民にすることが提起された。その後、江蘇省をはじめとして民衆教育館という公民館と相当する社会教育施設が全国に広がった。1936年の時点で全国の民衆教育館の館数は1,612館であり3、相当な規模になっていた。そのうち江蘇省は353館を有しており、その館数は全国一位であった4。民衆教育館の取り組みを究明するために、江蘇省という地域は無視できない存在であると考えられる。一方、こういった民衆を「無知蒙昧」だと考え、「作新民」として改造すべきだという認識はあくまでも少数の有識者の考え方であり、実際に市井の片隅に生まれ育ち、生活している人々は必ずしも自分は改造される必要があるとは思っていなかったであろう。それでは、「作新民」という少数の有識者の認識は、どのような教育を通じて、それらを一般民衆へ定着しようとしたのか。また、当時の中国では戦争や自然災害の頻発によって、農村社会の崩壊が急速に進行していた。経済先進地域と認識されていた江蘇省の北部にも「徐海地区」という97%が農村社会の地域があり、「十軒に九軒が空き家で、困窮している者は毎日麦や水で生き延びる」5という状況であった。故に当時は農村社会を救うことこそ中国の危機を克服するための鍵だという認識があった。その意味では農村社会に事業を展開し、教育を通して農村社会の問題を解決しようとした民衆教育館の動きには意義があると考えられる。したがって、本稿では江蘇省の北部に位置した江蘇省立徐州民衆教育館(以下、徐州民教館とする)に焦点を当て、社会教育の中心施設であった民衆教育館の展開を実証的に検討したい。具体的には「作新民」という少数者の展望に基づいて行われた民教館の実践は、いかに大衆社会に根を下ろし、民衆はどのように民教館の事業に参加したのかを解明する。また、発展が遅れた蘇北地区に展開された民教館の実践における、蘇南地区と比べた場合の相違点と共通点を明らかにしたい。今日の日本と中国においても、農村地域における不振や衰退は依然として共通の課題である。農村社会で地域の諸課題を解決しようとして徐州民教館の実践は、この課題に対して示唆を与えてくれると考える。この10年間、民衆教育館に関する研究は大きく進歩している。まず、マクロの視点で国レベル・省レベルから民衆教育館の歴史的展開を解明した研究が見られる。代表的な研究として、『近代民衆教育館研究』6や『民衆教育館与基層社会現代改造』7などが挙げられる。前者は全国レベルでの民衆教育館の進展を明らかにしたものである。特に民衆教育館の内部統制、例えば、経費の調達や、職員の構成などに着目して検討を行った。一方、後者は民衆教育館の具体的な事124早稲田教育評論 第 36 巻第1号一、先行研究と研究方法

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