キーワード:民衆教育館、社会教育、中国教育史、民衆教育【要旨】1928年以来、「作新民」という時代の要請に応じて、南京国民政府は民衆教育館という社会教育施設を拠点として一般民衆に対する教育を積極的に行った。とりわけ、社会経済および教育の先進地域である江蘇省では民衆教育館が非常に発達し、民衆教育館数は全国一位だった。本稿は江蘇省の蘇北(農村地域)に位置する初めての省立民教館である徐州民衆教育館に焦点を当て、南京国民政府時期における社会教育の中心施設であった民衆教育館の展開を実証的に検討したい。1932年、徐州民教館は長い準備期間を経て漸く開館に至った。徐州民教館は省立並みに数多くの社会事業を展開し、優秀な人材を招集した。一方で組織の変動や職員の流動は頻繁であり、さらに管轄地域は江蘇省面積の4/1を有する広い地域にもかかわらず、教育庁が支出する経費は他の省立民教館より些少なものであった。これらは事業の展開に支障を生じさせていた可能性があると推測できる。具体的な事業展開に関しては、徐州民教館は生計教育、国語教育、公民訓練といった三つの側面から民衆に向けた全面的な改良活動を行った。しかしその多くでは、破産的状況に瀕していた徐州の社会状況や、日々生き延びるために苦闘していた民衆の要求との齟齬が生じていたことが見てとれる。当然、事業の展開に伴い、試行錯誤を経て一部の事業に対する調整があったが、民衆の参加は表面的なものに留まり、より深く参加していこうとせず、転々としていたことが窺える。その理由について、本稿は当時の徐州地区には、徐州民教館が展開した事業を民衆の身につけさせる機会が少なかったため、事業と地域社会・一般民衆の関係が深化せず、民衆のより深い参加ができなかったためであると推測できる。20世紀において「内憂外患」に追い込まれた中国は救国救亡のため、近代化に向かい始めた。近代国家を形成するために、西洋の科学や技術、あるいは政治体制の導入はもちろん、近代国家に相応しい国民の形成も重要かつ不可欠であるとされた。しかし中国社会に近代化が必要となったのは、自らの矛盾の爆発によるものではなく、西洋文化と接触した後に外から引き起こされたものであった。そのため、変革の必要性やどのように変革すべきかを理解している人間は大衆ではなく、先見の明のある少数の有識者であった。そして、その少数の有識者は中国全体が現代社会に適応するために、大多数の人間の生活を改良するような方法を講じなければならないと考えた。清末から、こういった「少数」であった各政権や知識人、また実業家は「作新民」1という時代の要請に応じて、新たな国民を育て上げようとし123はじめに南京国民政府時期(1927〜1949)における ─徐州民衆教育館の取り組みを中心に─民衆教育館の展開万 静嫻
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