植民地教育をめぐる状況のように、宗主国と植民地、フランス人とアフリカ人という二項対立には還元できない構図になっている。近代学校教育に絶対的な信頼を寄せ、職業・技術教育を重視したジャン・カペルは、仏領西アフリカで何を行ったのか。政策的にみると、仏領西アフリカ大学区の創設に尽力したほか、試験センターの設置などによって大学入学要件を満たすための準備を行い、高等教育機関設立への方向づけを行った。また、中等教育の本国との統一や、初等教育の学校区分の一元化など、カペルの赴任前に規定された一連の教育改革の実施を担った。これらの改革を通して、フランス連合の一部としてあるべき教育の形を模索し、部分的にであれ、それを実現することに成功した。しかし、これらの教育改革は、いくつかの議論の余地を残している。ひとつは、旧来の植民地に特有の教育から脱却し、フランスと同様の教育システムを取り入れたことの是非である。カペルの主張に沿うと、フランス連合全体として、フランスとの教育の均質化を図る試みであり──実際に均質となりうるのかはともかく──、アフリカの各植民地内での教育機会の拡大に向けた試みでもあった。しかしそうした試みは、一部のアフリカ人議員の主張の通り、フランスへの過度に同化主義的な政策であった。こうした政策をとらず、アフリカ独自の教育政策をアフリカ人の主導で改良することで、独立後の教育運営が円滑になった可能性も否定できない。またカペルは、植民地と本国とを差別的に隔てた高等教育へのアクセスに関して、大学の設立という形で緩和を試みた。これと並行して、植民地内の差別的な区分であった初等教育の学校区分が撤廃されたものの、学校区分の撤廃によって植民地内の初等教育へのアクセスが拡大したとは考え難い。つまり、これらの改革は、一定程度の高度な教育を受けることができた層に対しては、より質の高い教育を受けることを可能にする改革であったが、初等教育へも就学できていない村落部の住民層への教育の提供という面では、それほど抜本的な解決につながらなかった。職業人育成のための高等教育改革を理想としたジャン・カペルと、高等教育機関の設立を目指したアフリカ側エリート達の思惑が合致した結果、高等教育へのアクセスは拡大したものの、大衆教育である初等教育は埒外におかれ、植民地内の教育格差がより開いたまま独立に至ったというのが実情なのである。これらの政策的側面に加えて、カペルが仏領西アフリカに与えた人的影響も無視できない。仏領西アフリカ大学区やダカール大学の創設などの教育改革を通し、カペルは西アフリカの代表議員らと交流を深めていく。特にセネガルのレオポール・セダール・サンゴールに関しては、カペルの自著である『独立前夜のブラック・アフリカの教育』において序文を執筆し、一連の教育改革の相談役となったのみならず、公私に渡って親しくした。サンゴールは、独立後のセネガルにおいて親仏政策を取ったことで知られている。学校での教授言語として現地の言語を採用することには消極的であったし、フランス語使用国の文化的団結を目的とした「フランコフォニー(仏語圏)」形成の構想をニジェール初代大統領のジョリ(Hamani Diori, 1916−1989)やチュニジア初代大統領のブルギーバ(Habib ibn Ali Bourguiba, 1903−2000)とともに打ち立てている。カペルというフランス人高官との接触が、カペルの意図に関わらず、サンゴールをはじめとするアフリカ人議員らの、教育をめぐる理念や理想に影響を与えた蓋然性は高い。それは、目に見える形で直ちに現われる影響ではなかったのかもしれないが、少なくとも「フランス連合」を理念的に仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─117
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