教育機関に属する人材を優先的に採用することが規定された77。これにより、本国の大学教員は、本国でのポストがなくなることを恐れてダカール高等研究所での講義を年に数週間行うのみになり、実際の指導の大半を高校教員や技術者に任せるという状況が生まれた。これに対して、学生総合協会(l’Association générale des étudiants)は高等弁務官へ苦情を申し立て、教員の刷新もしくは高等研究所の廃止を強く要求した78。ジャン・カペルは、第2期赴任の3か月前である1954年7月に高等弁務官ベルナール・コルニュ=ジャンティユ(Bernard Cornut-Gentille, 1909−1992)から仏領西アリカの教育組織に関して意見を求められ、高等研究所を大学へ改変すべき時であると応じ79、さらに、仏領西アフリカの教育拠点であるダカールに大学を設立するために必要な条件として、①本国の特定の大学との結びつきに終止符を打つこと、②仏領西アフリカという地での勤務に同意しただけの人材を優遇する競争試験を廃止すること、③本国で最も著名な大学教員に主要部門を委ね、本国での就労環境を維持したまま仏領西アフリカで毎年数か月勤務できるような体制を作ることの3点を挙げた 80。カペルと個人的な文書のやり取りもあった、フランス国民教育省高等教育局長のガストン・ベルジェは、仏領西アフリカでの大学創設に向けて思案し、1956年に「ダカールの高等教育機関を大学として構成する法律案」を出した。そして、高等弁務官の強い要望も加わった結果、フランス海外領土相ドフェールが承諾し、1957年2月24日の法令(décret-loi)によってダカール高等研究所は大学となった81。同法令の第3条には、「ダカール大学を構成する部門に属する職員は、フランス本国の大学の職員の一部である」と規定されており、ジャン・カペルの提示した条件を一部満たす形で大学が創設されたことになる82。そして、1957年7月29日の政令(décret)によって、大学の予算に関連した項目が規定され、大学としての最終的な規定が定まった。ダカール大学は、文学、法学、科学の3学部を擁して創設された。後のダカール大学医学となるダカール高等研究所の医学・薬学準備学校は、医学系科目の学習期間が1年間に定められていたが、1953年に「ダカール医学・薬学準備校」(École préparatoire de médecine et pharmacie de Dakar)へと改称するとともに、学習期間を3学年間としていた。1957年の法令とともに、「国立医学・薬学学校」(l’École nationale de médecine et de pharmacie)となり、博士号の取得を視野に入れた4年生から6年生の教育も行うことになった83。そして、一級教員資格保有者募集のための教員試験が組織化されると、国立医学・薬学学校はダカール大学の一学部となった84。ダカール大学は、1960年のセネガルの独立にともない同国の国立大学となったが、それまでの約3年間の期間、フランスの第18番目の大学であった85。第二次世界大戦後の仏領西アフリカの教育改革をめぐる対立構造は錯綜しており、その実施に際して複数の要素が介在していた。植民地教育の管轄をめぐっては、フランス海外領土省と国民教育省との対立があった。管轄省にともなって生じる教育の管理体制および教育内容の変化については、サンゴールのように全面的に支持する層もある一方、アフリカ人議員の間では、過度に同化主義的であるという意見も見られた。また、同様の対立はフランス人議員の間にも生じた。植民地であるアフリカ側の意見が無視できない政治的状況になったこともあり、1900年代前半の116早稲田教育評論 第 36 巻第1号まとめ
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