早稲田教育評論 第36号第1号
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た。反対者の一人として、マルセイユ市長や商船大臣を歴任したガストン・ドフェール(Gaston Defferre, 1910−1986)がいた。ドフェールは、1956年にフランス海外領土大臣に就任し、海外領土に関する法案を提案するとともに、「ドフェール基本法」(loi-cadre Defferre)とも呼ばれる1956年6月23日法を制定した69。この基本法は、激化する海外領土での自治権獲得運動を背景に策定されたものであり、領土に対する一部の権限の付与を旧来の手続よりも迅速に行えるようにするものであった。いわば、フランスのアフリカにおける植民地政策の転換を図る試みでもあったため、ドフェールは、アフリカ諸国の独立に向けた下地を作ったともいわれる70。ドフェール基本法によって、初等・中等教育の管理が各植民地に委ねられることが決定されると、仏領西アフリカ大学区は間接的に廃止され、1957年4月4日の政令では、全植民地の「共通サービス」のひとつとして位置付けられた71。かくして、ジャン・カペルとアフリカ人議員らの尽力で創設に至った仏領西アフリカ大学区は、数年間のうちに廃止された。大学区の創設と並行して、高等教育機関の設立の計画も進められた。上述のカペルによるフランス海外領土大臣宛の手紙(1947年4月3日)からも読み取れる通り、仏領西アフリカにおいて国民教育省の管轄する高等教育機関を設立することは、カペルや仏領西アフリカ代表議員らの悲願であった。仏領西アフリカでは、1910年代に上級技術教育(l’enseignement technique supérieur)機関が設置された。1944年までは、その一機関であるウィリアム・ポンティ師範学校や仏領西アフリカ医学校のみが仏領西アフリカにおけるエリート教育を担い、高等教育へのアクセスは事実上制限されていた72。カペルは、仏領西アフリカでの最初の任期中に、国民教育省および適切な資格を有した管理者によって、仏領西アフリカにおいて後期中等教育や高等教育を実施することを目指した。ダカールに大学研究所を作る計画は、サンゴールを報告者として、1949年6月の仏領西アフリカ大評議会に提出され全会一致で承認された。カペルは第1期在任中に、医学部入学のために必要な、PCB(physique, chimie, biologie)の学習証明書を発行するための、ダカール試験センター(le Centre d’examens, 1949年7月)を開設した。1949年10月には同じくダカールに法学部試験センター(le Centre d’examens pour la licence en droit, ボルドー大学に付属)が開設された73。この2センターに加え、既存の旧仏領西アフリカ医学校74(1944年に8月に仏領赤道アフリカとの単一の連邦間医学校に改編)を加えた計3機関を母体として、1950年4月6日の政令によって、ダカール高等研究所(Institut des hautes études de Dakar)が正式に設立されることになった。カペルが1949年9月30日にセネガルを離れてからおよそ半年後のことであった。ダカール高等研究所は、高等法学校(Ecole supérieure de droit)、医学・薬学準備学校(Ecole préparatoire de médecine et pharmacie)、高等科学校(Ecole supérieure des sciences)、高等文学校(Ecole supérieure des lettres)の4学部および附属の研究所を併設した研究・教育機関であり75、学習体制、カリキュラム、修了時のディプロマの授与条件については、パリ大学およびボルドー大学と提携した76。しかしながら、教員の採用に関しては、フランス海外領土省によって、1949年6月にサンゴールら提出した大学研究所の設立計画が修正され、国民教育省の認可を受けた大学教員よりも、海外領土等の仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─115(3)高等教育機関の設立

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