承認しない意向を固め、「ブラック・アフリカ大学区」は創設には至らなかった。この議論に並行して、フランス海外領土省も独自の動きを見せた。1946年1月19日の政令で、植民地教育に関する新たな「教育の一般枠組み」(cadre général del’enseignement)を発表した。これは、先に触れた、差別的に分かれていた幹部職を統一する原則を提案するものであったが、全体的な主旨としては、海外教育経験を有する国民教育省とはかかわりのない人材を植民地の教育関係者として雇用するなど、植民地教育の教職員人事においてフランス海外領土省の関与をさらに強めることが意図されていた60。カードルの統一に関しては先述の通り1949年に採用されることになったものの、この一般枠組みは、カペルをはじめとして、当時の仏領西アフリカ植民地総督であるルネ・バルトや61、後任のポール・ベシャール62の反対を受け適用されなかった63。フランス海外領土省においても、省内は一枚岩ではなく、植民地教育の在り方については意見が分かれていた。「一般枠組み」が不採用となると、フランス海外領土省は、カペルの案である植民地教育の国民教育省への移管と大学区創設案への批判を強めるようになる。カペルの政策案が同化主義的であり、海外領土の責任はフランス海外領土省が負うべきであるとして、カペルの案に反発した。植民地教育の国民教育省への移管および大学区の創設に関しては、植民地総督であったバルトやベシャールの賛同があったものの、フランス本国の議員や、カペルの意見に賛同しないセネガルの議員らの反対が強く、結局、カペルの案はとん挫した。カペルは、1949年10月に公式に教育局長を辞任し、ダカールを離れた。フランスへ帰国したカペルは、ナンシー大学の学長に就任した。ナンシーでは、「ナンシー・ヨーロッパ大学センター」(Centre européen universitaire de Nancy)の開設に尽力した。同センターは、1950年10月21日にピエール=オリヴィエ・ラピー(Pierre-Olivier Lapie, 1901−1994)国民教育相を議長とするナンシー大学評議会によって設立された64。また、上級技術者や管理者の不足に対応するため、ポン=タ=ムソン社代表のアンドレ・グランピエール(André Grandpierre, 1894−1972)との共同で、大学と産業の連携による生涯教育施設である、「社会経済協働大学センター」(Centre universitaire de Coopération économique et sociale)を1954年に設立した65。この間も、カペルは仏領西アフリカのサンゴールらと文書のやり取りをしており、植民地教育を国民教育省管轄の一大学区とするための計画を練っている66。時代の変化とともにアフリカ出身議員の発言力が大きくなり、またフランス海外領土大臣にフランソワ・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand, 1916−1996)が就くと、国民教育省とフランス海外領土省の関係も緩和された。そして、両省大臣の連名による1950年11月27日の省庁間の政令によって、論争の的となっていた仏領西アフリカ大学区(Académie d’AOF)がついに創設されることとなった67。仏領西アフリカでは、ダカールに大学区長が、各「植民地」に大学区視学官が配置され、さらに21の学区(circonscriptions)に初等視学官が置かれる体制を取った。この組織構造は、上記の省庁間の政令にも明記されている。カペルは、サンゴールらアフリカ人議員に乞われる形で1954年にセネガルに戻り、国民教育省に認められた仏領西アフリカ大学区の初代大学区長に就任した68。しかしながら、この後ふたたび、仏領西アフリカ大学区の位置づけをめぐる激しい論争が起き114早稲田教育評論 第 36 巻第1号
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