つようになった55。しかしながら、フランス本国において、仏領西アフリカの植民地教育は依然としてフランス海外領土省の管轄下にあった。カペルはこれを国民教育省へ移管することを試み、仏領西アフリカの教育を本国と同質化させることを目指した。これまでみてきたカペルの改革案は、仏領西アフリカの教育を本国フランスの教育へと同化させる政策をフランス側が一方的に押し進めたかのようにも受け取れる。しかし、植民地教育の管理をフランス本国の国民教育省の管轄下に置くという要求は、仏領西アフリカの人々からも上がっていた56。上記のカペルの書簡を経ても、植民地教育に関しての具体的な改善の兆しが現れなかったことを受け、セネガル出身議員であるレオポール・セダール・サンゴールは、1947年6月26日に、植民地の学校を国民教育省の直轄とする法案を提出した。カペルの出した法案が仏領西アフリカのみを対象としたものであったのに対し、サンゴール案はフランスの植民地全体を対象としたものであった57。このサンゴールの法案は、フランス海外領土省および国民教育省の間で活発な議論を引き起こした。この時期の植民地教育をめぐる論争を詳細に記載したガンブルの研究によると58、フランス国内においては、フランス海外領土省とカペルの後ろ盾である国民教育省の間で勢力争いがあり、前者が植民地固有の教育制度や農業教育の維持を推進しているのに対し、後者は本国フランスとほぼ同様の植民地教育の運営を提案していた。また、同時期の仏領西アフリカにおける社会主義系の政治家(セネガルのサンゴール、アマドゥ・ラミン・ゲイやウスマン・ジョップ・ソウセ、ギニアのヤシーヌ・ジャロ)は、仏領西アフリカの教育が本国の国民教育省に移管されることを望み、学校が本国の教育制度に組み込まれることによって、フランス海外領土省と植民地政府による教育の支配から解放されることを目指した。サンゴールは、国民教育省への移管に向けて特に熱心に活動した。1948年に創刊された自身の政党機関紙59(Condition humaine)においては、アフリカにおける知識人の育成を避けてきた植民地省(フランス海外領土省)の教育の弊害を告発した。また、仏領西アフリカ大評議会においても、植民地教育を国民教育省へ移管することの重要性を説き、本国と同様の大学区である「ブラック・アフリカ大学区」(académie de l’Afrique noire)の創設を求める法案を同評議会で採択させた。この法案は、フランス連合議会においても審議された。しかし、審議の際に、カメルーン代表議員であるダニエル・ケマジゥ(Daniel Kémajou, 1921−1984)から、過度に同化主義的であると批判されるなど、アフリカ側の議員から反対意見が生じた。フランス人議員の間でも意見は分かれた。「ブラック・アフリカ大学区」が一大学区として国民教育省の管轄に置かれることは、省内の特定の部局が膨大な植民地の教育を管理することを意味し、それが可能であるのかという懸念の声が上がった。また、植民地の人々は自身で適切な教育を選ぶ必要があるという意見もあり、国民教育省への移管を慎重に捉える見方があった。一方、フランス海外領土省が植民地教育を管理していることに対しては、同省が教育を政治的に扱ってきたため、管轄省とするのは適切ではないという指摘もあった。とはいえ結局、1948年7月29日、フランス連合議会はこの法案を仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─113(2)仏領西アフリカ大学区の創設
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