早稲田教育評論 第36号第1号
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質化を図った45。カペルは一貫して、仏領西アフリカの教育構造をフランス本国のそれと合わせようとしていた。その詳細な構想は、彼が1947年4月3日にフランス海外領土大臣宛に書いた以下の手紙に示されている46。仏領西アフリカの人々は、フランス人と同様に議会に代表者を送る権利を得ており、エリート層である仏領西アフリカの就学者が、フランスの枠組みに倣った教育を享受し、フランス本国と同等の質と威信を有する試験を受けることは急務となっている。現在の教育体制は、ガリエニ47のそれを忠実に引き継いだものであり、当時は非常に時宜にかなっていたが、もはやそうではない。仏領西アフリカを植民地化するのではなく、膨大な数のアフリカ人の望みにしたがって、アフリカにフランスを拡張すべきであるという考えから出発すると、国民教育省が専門的な次元で仏領西アフリカの教育を管理することが必要だという考えに至る。これに続いてカペルは、改革案として、①学習修了時に得られる資格を本国と統一すること、②師範学校の水準を本国にあわせて調整すること、③教育行政の階層構造を本国と同様に、教員、初等教育視学官、大学区視学官、大学区長とすること、④高等教育の第1期課程、第2期課程は現地で、また、より専門性の高い第3期課程48の教育は本国で行われるべきであるという4点を提示している49。そしてこれらの改革案は、高等弁務官および仏領西アフリカの全代議員の全面的な同意を得て作成したものであるという50。また、アフリカ人医師の育成を目的とした医学部の開設および経済発展を目的とした技術教育学部の組織化を提唱したほか、既存のフランス・ブラック・アフリカ基礎研究所51(Institut français d’Afrique noire)の科学的・人的資源が高等教育実施に際して強固な基盤となりえるといった理由から、ダカールに大学を創設すべきであると主張し、仏領西アフリカの教育を国民教育の管理下に置くべきであると締めくくっている。カペルのこの提案から読み取れるのは、カペルが学校教育──特に高等教育による専門的人材の育成──を重視していた点、仏領西アフリカにおける教育をフランスと同等程度に引き上げるべきであると考えていた点、そのために、仏領西アフリカの教育を本国の国民教育省の手にゆだねる必要性があると認識していた点である。また、そうした改革点は、あくまで、仏領西アフリカがフランス連合の一部であるという前提のうえに成り立っており、西アフリカ諸国の自立・独立は視野に入れられていなかった。カペルは、本国の教育行政組織に倣い、仏領西アフリカの各植民地を7つの大学区視学官事務所(inspections académiques)がそれぞれ管理する体制を作り52、その下部組織として、21の初等視学官管轄区(circonscriptions d’inspection primaire)を置いた。また、大学区長と大学区視学官は、国民教育大臣から称号を授与された者を、初等視学官の幹部は国民教育省から認可を受けた者をそれぞれ配置した53。これにより、仏領西アフリカにおいて、本国フランスと同様の教育管理体制を構築することを目指した。カペルによれば、1948年11月に高等教育の第1期課程54が創設されたことにより、仏領西アフリカの学校システムは、ついに本国の大学区と同様の構造を持112早稲田教育評論 第 36 巻第1号

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