の憲法制定議会では、フランス連合の教育政策を監督する権利を持つ国民教育高等評議会の設立が決議され、その前日に採択された政令でも、農業教育を推進してきたフランス海外領土省の教育部門が縮小される形になり、国民教育省の立場が強化される結果となった40。1946年に植民地省がフランス海外領土省に再編されて以降、フランス国内の各省庁は、徐々に海外領土へと活動範囲を広げていったが41、教育に関してもそれは例外ではなかった。仏領西アフリカは、教育制度が確立された1903年当初こそ本国の教育関連省庁からの人的・知的支援を得たものの、その後は仏領西アフリカ政府の独自の裁量で植民地教育が実施され、カリキュラムや修了時の証明書に関しても、植民地に特化した形式が取られていた。つまり仏領西アフリカ政府は、ブラザヴィル会議にいたるまでは、植民地教育に関してほぼ完全に本国から隔絶した制度を運営していたのであるが、同会議以降、本国フランスの国民教育省の関与を許さざるを得ない状況になったのである。植民地政策が大きな転換期を迎え、フランス海外領土省と国民教育省の軋轢が極まる最中、ジャン・カペルは当時の国民教育省高等教育局長ベルジェの後押しで1947年1月1日に仏領西アフリカ教育局長としてセネガルへ赴任した。当時の西アフリカの教育状況や、フランス連合の一員としてあるべき教育の形を考慮したカペルが、仏領西アフリカの教育を本国フランスと同じ基準で行うようにすることを目指して行った教育改革は(1)教育行政改革、(2)仏領西アフリカ大学区の創設、(3)高等教育機関の設立の3点に大別される。セネガルへの赴任後、カペルが最初に行ったのは各地の学校の視察である。1947年にはセネガル南西部のカサマンス、ニジェール、オート・ボルタ(ブルキナファソ)の学校を訪問し、1948年にはギニア中西部、1949年にはコートディヴォワールの学校を視察した。この視察の内容はカペルの著書である『独立前夜のブラック・アフリカの教育(1946−1958年)』に詳しい42。こうした視察の結果も手伝い、カペルは仏領西アフリカの教育運営がフランス海外領土省に一任されていることに異を唱え、国民教育省の監督のもと、植民地教育を本国と同様の運営体制へと改編するための計画を精力的に打ち出していく。カペルがセネガルに赴任する前の教育行政システムでは、仏領西アフリカの連邦レベルに仏領西アフリカ教育局(Direction de l’enseignement en Afrique française)があり、仏領西アフリカ域内の各「植民地43」(現在の国に相当する行政単位)のレベルに、行政の長である植民地総督(gouverneur、後の高等弁務官haut commissaire)が置かれ、各植民地に、領内の教育を管理する教育部が設置されていた。この教育部の長である教育部長(chef de service de l’enseignement)には、多くの場合、本国で上級資格をもつアグレジェ教員が就いたが、その植民地での教育の進捗状況や植民地の政治的重要性に応じて、学士号保持教員や、初等視学官、初等教員が担当するなど、教育部長の有する資格は一定ではなかった44。第二次世界大戦後は、この教育行政構造および人員に関して大幅な変更がなされた。ジャン・カペルは、赴任後の1947年に、仏領西アフリカの教育部長を、国民教育省から認可を受けた大学区の視学官に置き換えた。さらに、ヨーロッパ人の初等教員であっても視学官になることを可能にする植民地特有の採用試験を廃止し、仏領西アフリカ内および本国と仏領西アフリカとの視学官の均仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─111(1)教育行政改革
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