(Collèges techniques)と研修センター(Centres d’apprentissage)に再編成された27。110師範学校での教員養成に関しても、本国をモデルとした改革が行われた。仏領西アフリカには、いわゆる「エリート」の養成校であったセネガルのウィリアム・ポンティ師範学校(école normale William-Ponty、1903年設置28)を筆頭に、スーダン(現マリ)のカティブグ農村師範学校(école normale rurale de Katibougou、1934年設置)とコートディヴォワールのダブ農村師範学校(école normale rurale de Dabou、1938年設置)、ルフィクス女子師範学校(école normale de filles de Rufisque、1939年設置)が置かれていた。このほか、年齢的、学業成績的に師範学校へ通うことのできない生徒を対象に、補助教員の養成を行う師範コース(cours normaux)が設置されていた29。アフリカ人正規教員の養成校であるウィリアム・ポンティ師範学校においては、1946年にバカロレア準備部門の設置が規定された30。教育内容の面からウィリアム・ポンティ師範学校よりも劣っていると認識されがちであった農村師範学校では、アフリカ選出議員らの支援を受け、1947年にウィリアム・ポンティ師範学校と同等の授業内容、卒業資格、制服などが認められるようになった31。さらに、1949年の行政改革によって、これまで差別化されてきた幹部職の枠組み──ヨーロッパ人を対象とした上級幹部とアフリカ人を対象とした二級幹部──であるカードル(cadre)の統一がなされ、アフリカ人の全ての師範学校出身者に、ヨーロッパ人と同じ教育関係幹部への道が開かれることになった。これにより、それまでアフリカ人エリート教員の養成を一手に担ったウィリアム・ポンティ師範学校は、その特殊性を失った32。カペルはというと、このカードルの統一に関しては難色を示していた。カードルの統一が意味するのは、仏領西アフリカの幹部職が本国の幹部職と同等に扱われることによって、フランス国内の確固たる資格や経歴を持たぬアフリカの幹部職層が本国の幹部職とみなされることであるため、本国の教職関連幹部層から批判を招く恐れがあったからである33。時代を少し遡ると、1942年に、二級幹部から上級幹部への昇級を理論上可能にした高等職業適性証(diplôme supérieur d’aptitude professionnelle)の発行規定が出されていた。カペルは、カードルの統一を求める意見に対する緩和策として、高等職業適性証をより取得しやすくするという政策を打ち出し、それと同時に、取得に際して申請者のライフスタイルや文化習慣がフランス的か否かを問う内容を組み込んだ。これによって、二級幹部のうち、西洋的な生活習慣を有する者が、より上級幹部として採用されるという結果になった34。1949年には、ウィリアム・ポンティ師範学校卒業生をはじめとするアフリカ人の教職員組合の圧力が強まり、最終的にはカードルの統一が規定された35。カードルの統一を避けるカペルの姿勢は教職員組合から猛烈な批判を浴び、後述の仏領西アフリカ大学区創設のとん挫もあり、カペルは同年に教育局長を辞職している36。こうしたカペルの教育改革への姿勢から、カペルが、フランスの国民教育省の教育管理水準を維持しつつ、アフリカ人に対して、あくまでフランス連合の一部としてふさわしい教育の実施を目指したことが読み取れる。さて、植民教育の内容面に関しては、かねてより農業教育実施の是非が問われてきた。ブラザヴィル会議から1950年代初頭までの学校制度の再編成をめぐる論争を研究したガンブルによると 37、ブラザヴィル会議において、農業教育を大衆教育の中心に据えた学校教育政策が失敗であったことが確認され38、1946年には村落部の学校での農作業が廃止された39。1946年5月18日早稲田教育評論 第 36 巻第1号
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