早稲田教育評論 第36号第1号
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理していた植民地省(Ministère des Colonies, 1894年設立)は、1946年には「植民地」の呼称を避け、フランス海外領土省(Ministre de la France d’Outre-mer)へと名称を変えた。初代大臣には、マリウス・ムテ(Marius Moutet, 1876−1968)が就任した。ブラザヴィル会議からフランス連合成立へと続く一連の流れによって、植民地の人々の権利が一定程度認められるようになった。しかしながら、それはあくまでフランス連合の構成員とするための融和政策であり、アフリカ諸国の独立の可能性は排除されていた。また、この時期の論争は、さまざまな対立構造を浮き彫りにした。植民地の政治や教育等の分野において従来のような植民地独自のシステムが維持できなくなった結果、フランス本国の各省庁の人的・知的資源を動員する必要が生じたのである。このことは、他省庁の干渉を嫌うフランス海外領土省とフランス国内の各省庁の間に軋轢を生み出した19。また、ブラザヴィル会議を経て、アフリカ人議員らの発言権が強くなるに従い、フランスは植民地教育政策全体を見直さざるを得なくなった。仏領西アフリカでは、1903年に植民地教育が正式に開始された。独立移行期に至る約40年の間に実施された植民地教育では、ヨーロッパ人子弟の通う「都市学校」(écoles urbaines)とアフリカ人の子弟が通学可能な学校種が区別されており、アフリカ人子弟のなかでも有力者の子どもが通う「地域学校」(écoles regionales)と一般の子どもが通う「村落学校」(écoles de village)とが区別されていた。また、ヨーロッパ人子弟が本国フランスのカリキュラムに準じた「都市学校」に進学できたのに対し、アフリカ人子弟が通学しえたのは、地方の主要都市に設置された「地域学校」と、村落部に設置され基礎的学習に終始した「村落学校」のみであった。アフリカ人向けの教育はフランス本国の教育から完全に分断されていた。学校数の大部分を占める村落学校においては、1930年代の同化主義的な植民地支配への批判から、農業教育が推進された。村落部に「適応」すると考えられたこの大衆教育にはフランスの教育政策関係者から非難も生じていたが20、この問題が特に表面化し議論の的となったのは、1944年のブラザヴィル会議においてであり、これ以降、仏領西アフリカの教育制度は大きく変化した。フランスと同等のカリキュラムや修了試験の実施を目指し、1945年8月22日の政令では仏領西アフリカ初等教育の再編成が発表された。旧来の村落学校、地域学校、都市学校という学校区分21が廃止されるとともに、初等基礎教育(Enseignement primaire élémentaire)課程の初等学校として統一された22。初等教育の教育期間は、最低6年間、最高8年間と定められ、修了資格も、地域学校の修了時の「原住民初等教育修了資格」(certificat d’études primaires indigène)から、「基礎初等教育修了証」(certificat d’études primaires élémentaires)へと変わった23。また、上級初等教育(Enseignement primaire supérieur)の修了時に得られる資格として「上級初等教育修了証」(certificat d’études primaires supérieures)が規定された24。ジャン・カペルは、第1期在任中にこれらの初等教育統一化の規定を実行に移すとともに、中等教育段階以上の制度改革も進めた。1947年には、カペルによって上級初等教育機関が現代コレージュへ(Collèges modernes)と改編され、学習期間も3年間から4年間となった25。現代コレージュでは、「基礎免状」(brevet élémentaire)の認可を受けた、本国の中等教育第1期のカリキュラム内容が適応された26。また、旧来の職業・技術教育系機関も技術コレージュ仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─1092.仏領西アフリカにおける自立に向けた教育改改革

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