早稲田教育評論 第36号第1号
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る熱意が読み取れる。そして、その熱意の対象は植民地の人々にも向けられた。カペルによれば、植民地の人々がフランス共同体の運営に参加するにあたって、「教育は、人々の才能、習慣、ニーズ、および国の経済に適合したものでなければならないが、同時に、若者が適性以外のいかなる差別も受けることなく、社会階層の最高位にさえ自由かつ公平にアクセスできるようにしなければならない12」という。また同時にカペルは、「技術と自覚によって自分の職業を完成させることで、学歴を基準としたピラミッドの高いレベルにいる人々よりも優れた、自分自身の価値を獲得することが可能である13」としている。カペルは教育の素晴らしさを信じて止まなかったが、彼が重視したのは学歴や学校歴ではなく、教育を通して身に着けられる職業人になるための技術に他ならなかった。「すべての教育は、直接的にも間接的にも職業的傾向をもつ14」という手記からもうかがえる通り、カペルは、技術者の養成や職業教育を重視していた。だからこそ仏領西アフリカの教育に関しても、植民地住民が本国と同様の職業人であれるよう、本国フランスと同様の管理体制や教育内容を導入することを試みた。とはいえ、それは、同時代の政治状況を反映し、あくまで植民地住民をフランス連合の一員として遇するための教育であった。植民地支配によって抑圧されてきたアフリカ系の人々の連帯を促すパン・アフリカニズムの運動は、W. E. B. デュボイス15らを中心として19世紀末のアメリカで起こり、第二次世界大戦終結後に欧米やアフリカで全盛期を迎えた。このパン・アフリカ主義の潮流と、第二次世界大戦終結後の植民地における民族意識の高まり、および国際連合の成立と植民地支配に対する批判的な思潮は、仏領西アフリカの統治体制にも影響を及ぼし、宗主国フランスは植民地の大規模な改革を余儀なくされた。先にも触れたように、1944年1月には、仏領赤道アフリカ(現コンゴ)の首都ブラザヴィルにおいて、「フランス=アフリカ会議」(通称「ブラザヴィル会議」)が開かれた。主宰者は、第二次大戦中にドイツの傀儡政権となったヴイシー政府に対抗して自由フランス政府を組織したシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle, 1890−1970)将軍であり、会議の出席者は主としてフランス領アフリカ植民地の総督や行政官であった。ブラザヴィル会議では戦後の新たな植民地政策について討議され、具体的には、原住民制度の廃止、強制労働の廃止、教育の整備、工業化推進などの原則が定められた16。その後、1946年10月27日に出されたフランス第四共和国憲法において、フランス本国と海外県、海外領土、協同国家、協同領土で構成されるフランス連合(Union française)が成立した。この憲法の制定に先立って行われた新憲法制定のための国民議会選挙において、フランスの市民権を持たないアフリカの人々に選挙権・被選挙権を認める選挙区が各植民地に限定的に設けられるとともに、フランス本国の国民議会にもアフリカ人の議席が設けられるようになった17。後にセネガルの初代大統領となるレオポール・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor, 1906−2001)は、この時期にフランスの下院議員となった。フランス連合は、植民地の人々を広くフランス社会に統合することを目標に掲げていた。第四共和国憲法の前文にある、「フランスは、人種や宗教の区別なく、海外領土の人々とともに、権利と義務の平等に基づく連合を形成する18」との文言が示す通り、それまで植民地を一元的に管108早稲田教育評論 第 36 巻第1号(3)植民地観と植民地政策の変化

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