早稲田教育評論 第36号第1号
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において研究開発室の責任者となり、車両のギアボックス(歯車装置)の設計を担当した。また、1941年には独自の切削機を考案し、特許を取得した。研究者としては、歯車の研究を深め、1938年に「キャスター法による歯車の生成」をテーマにした博士論文を発表し、当時の航空省から出版されている。さらに、管理者としては、フランスの歯車メーカーとエンジニアリング会社の共同出資で設立された専門技術訓練および試験場の経営者として活躍した。こうして、教育者、技術者、研究者、管理者としての経験を積んだカペルは、「大胆な大学教員」を探していた国民教育省高等教育局長ガストン・ベルジェ(Gaston Berger, 1893−1960)の強い要請を受け、仏領西アフリカ教育局長に就任することを引き受けた6。ジャン・カペルは、1947年1月1日から1949年9月30日まで、仏領西アフリカの総督府があるセネガルのダカールに滞在した。一旦フランスへ帰国した後、1954年10月1日に再度セネガルへ赴き、1957年9月30日に帰国した。アフリカへの2度の赴任の間にも、ジャン・カペルは、フランス北西部にある当時のナンシー大学で教鞭を取り、ナンシーでの研究センターの設立に尽力した(後述)。また、1957年にセネガルから帰国した後は、同年にリヨンに開設された国立応用科学研究所(Institut national des sciences appliquées)の所長に就任している。これらの高等教育機関や科学技術教育機関の長を経験したほか、フランスの国民教育省内においても、1961年に就任した中等教育局長をはじめとして、教育改革に携わる要職を歴任する。1963年には学校組織・カリキュラム局長(Directeur général de l’organisation et des programmes scolaires)として、フーシェ改革またはフーシェ・カペル改革とも呼ばれる教育改革に取り組み 7、1963年8月3日の政令(le décret no 63-794 du 3 août 1963)に基づく総合制の中等教育学校コレージュ(Collège d’enseignement secondaire)の設置に携わり、中等学校の3種類の前期コースを単一の総合制コレージュで実施するという学校教育の民主化や、教育水準の向上に尽力した 8。その後、1965年からベルジュラック地方サン=アヴィット=セニュールの市長を務め、翌年にはナンシー大学において機械学の教員として復帰し、1983年に他界した9。国際的な研究・教育活動にも足跡を残しており、ユネスコやOECDの研究活動への参加、欧州評議会教育・文化担当委員への就任のほか、大学設立のための調査団(1962−64年ナイジェリア、1964−65年ギリシャ)、大学組織化の調査団(1963−65年マレーシア、1964年タイ、1969−1970年にインドネシア)、ポリテクニックスクール設立のための調査団(1964年インド)の代表や、エジプト高等教育改革のためのユネスコ委員会(1968−69年)委員長も務めた10。教育者、技術者、研究者、管理者、そして教育行政官という多才な経歴をもつジャン・カペルであるが、その教育観には技術者や高度人材の着実な育成が必要であるとの理念が一貫しており、その実現のために彼は、学校教育制度の改革に力を注いだ。1957年にリヨンに設置された国立応用科学研究所は、ジャン・カペルの構想によるものであり、バカロレア取得後にグランゼコール準備級へ進学するという一般的な進路を省いて直接願書を提出することができるという、新しいタイプのグランゼコールであった11。カペルの経歴や著書からは、彼の教育に対する確固たる信頼や、高度技術人材の育成に対す仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革 ─ジャン・カペルの教育理念との関連から─107(2)ジャン・カペルの教育理念

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