早稲田教育評論 第36号第1号
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領土から成るフランス連合(Union française)が成立した1。しかし各地域の内政の主導権は依然としてフランスが掌握していたため、アルジェリア、マダガスカルなどにおいて、自治権の獲得に向けた運動と弾圧が激化した2。1956年に基本法を制定するも、独立に向けた流れを抑えることはできず、1958年には自治規定をさらに拡大させたフランス共同体(Communauté française)が成立し、フランスの植民地は段階的に独立への歩みを進めた。植民地教育も第二次世界大戦後に大きな転換期を迎えた。それまではフランス本国と区別されていた植民地的教育制度やカリキュラム規定、卒業・修了資格などを、フランス本国の内容に合わせて変更する決定がなされた。この大規模な教育改革は、フランスの国民教育省とフランス海外領土省の間の対立を生み出した3。この時期の教育改革を主導した教育担当官の一人がジャン・カペル(Jean Capelle, 1909−1983)である。カペルは、フランスにおいて教師や行政官を歴任し、また、仏領西アフリカでは、1947年から1949年、1954年から1957年にかけて、教育局長として高等教育を中心とした教育制度改革を行い、仏領西アフリカ大学区の大学区長にも就任した人物である。植民地に対する内外的な意識が変化し、フランス植民地の支配体制が大きく転換した西アフリカ独立前後の時期において、カペルが実施した教育改革はどのような意味を持ったのか。本論では、1950年前後に仏領西アフリカの教育局長を務めたジャン・カペルの教育理念を手掛かりとして、同時期の仏領西アフリカの教育改革を読み解くことを目的とする。仏領西アフリカの独立前夜の教育改革が何を目指し、どのように行われたのかを明らかにすることで、独立後の西アフリカの教育へと続く改革の経緯を検討する。なお、本稿では、ジャン・カペルの著作および『仏領西アフリカ官報』(Journal Officiel de l’Afrique Occidentale Française)、また、関連先行文献を主たる資料として用いる。ジャン・カペルは、1909年にフランス南西部ベルジュラック地方の地主の家系に生まれた。父親は農業経営者であり、母親は教師であった4。高校修了時には数学と哲学のバカロレアを取得した5。パリの鉱山学校(Ecole des mines de Paris)に通い、微分学と積分学の学士号を、また、高等師範学校(Ecole normale superieure)で確立計算と古典力学の学士号を取得し、1933年に数学のアグレカシオンを得た。その後、カペルが仏領アフリカに派遣される1947年までにたどった経歴は多岐にわたる。カペルの生涯を通して見ると、その経歴には、教育者、技術者、研究者、管理者、教育行政官という5つの側面がある。教育者としては、サン・シール士官学校(Ecole de Saint-Cyr)の準備学級や国立農学研究所(Institut national agronomique)、オルレアンのリセ・ポチエ(Lycée Pothier)や、トゥールーズのリセ・ピエール・ド・フェルマ(Lycée Pierre de Fermât)といった高等学校において数学を教えた。また、1942年以降は、ナンシーの国立高等電気・機械学校(Ecole nationale supérieure d’électricité et de mécanique)において合理・応用力学の教員として着任するなど、数学系の教員として多くの教育・研究機関で教鞭を取った。さらに技術者としては、1934年に自動車メーカーのシトロエン106早稲田教育評論 第 36 巻第1号1.ジャン・カペルと第二次世界大戦後の植民地観(1)ジャン・カペルの人物像

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