キーワード: 仏領西アフリカ、フランス植民地、植民地教育、アフリカ、教育史【要 旨】本稿の目的は、1950年前後に仏領西アフリカの教育局長を務めたジャン・カペルの教育理念を手掛かりに、同時期の仏領西アフリカの教育改革を読み解くことである。仏領西アフリカの独立前の教育改革が何を目指し、どのように行われたのかを明らかにすることで、独立後の西アフリカの教育へと続く改革の史的経緯について検討する。ジャン・カペルには、教育者、技術者、研究者、管理者、教育行政官という5つの経歴があるが、彼の経歴や自著などからは、カペルが近代学校教育に対して確固たる信頼をよせ、高度技術人材の育成に熱意を注いだことが読み取れる。また、西アフリカの教育に関しては、フランス連合の一員としてふさわしい、本国同様の教育を国民教育省の管轄下で行うべきであるという主張を一貫して展開した。仏領西アフリカでは、フランス本国の教育から分断された独自の教育行政システムが構築されていたが、1944年のブラザヴィル会議以降、フランス本国と同等のカリキュラムや修了試験の実施が目指されるようになった。また、旧来、フランス海外領土省(旧植民地省)が主導してきた農業教育に批判が生じ、同省の教育部門の縮小が余儀なくされる一方、国民教育省が発言権を強めていった。こうした状況下にある1947年、仏領西アフリカ教育局長としてセネガルへ赴任したカペルが現地で行った教育改革は、(1)教育行政改革、(2)大学区の創設、(3)高等教育機関の設立の3点に集約される。第二次世界大戦後の仏領西アフリカの教育改革をめぐる対立構造は混乱を極めており、その実施に際しては複数の要素が介在していた。とりわけ植民地であるアフリカ側の意見が無視できなくなった結果、1900年代前半とは異なり、宗主国と植民地、フランス人とアフリカ人という二項対立では理解不能な重層的状況のなかで、教育改革が実施されざるをえなかったのである。西アフリカ一帯は、1895年に仏領西アフリカ(Afrique occidentale française: AOF)としてフランスの植民地となった。これらの植民地は1958年から1960年にかけて相次いで独立を遂げた。独立に向けた体制変動の画期となったのは、第一次および第二次世界大戦であった。特に第二次世界大戦後は、アフリカでの反植民地運動の高まりや、民族解放に向けた国際世論の広がりを受け、フランス政府は支配体制の大規模な改革を余儀なくされた。詳しくは後述する通り、第二次大戦中の1944年に植民地とフランスとの間で開催されたブラザヴィル会議において、フランス軍に協力する仏領西アフリカの住民に対し、それまでの植民地「臣民」(sujet)の権利ではなく、フランス「市民」(citoyen)としての権利を与えられることが認められた。さらに1946年10月27日に出されたフランス第四共和国憲法では、フランス本国と海外県、海外領土、協同国家、協同105はじめに仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革─ジャン・カペルの教育理念との関連から─谷口 利律
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